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榎本武揚と国利民福 Ⅲ.安全保障(前編) 安全保障へのプロローグ

2020.06.25 Thu

(金比羅岳からの長崎湾の眺め)

 

 

国利民福 Ⅲ.安全保障 前編 榎本の安全保障へのプロローグ

注: 年齢は数え年

 

・海軍軍人への道

 

 榎本は1836(天保7)年に御徒町の通称三味線堀で榎本圓兵衛*1の次男として生まれました。都営大江戸線、新御徒町駅から佐竹*2通り(佐竹商店街)にかけた地域です。幼名は釜次郎。

*1  榎本圓兵衛武規(えんべいたけのり)
1790(寛政2)年~1860(万延元)年8月8日
備後国安那郡箱田村庄屋細川家次男、箱田良助。17歳のとき、伊能忠敬に入門し、筆頭内弟子になる。伊能忠敬没後、「大日本沿海輿地図」を完成させ、幕府に提出する。その後、御徒士(おかち)榎本株を買い入籍し、改名する。天文方に出仕後、御勘定方に昇進し、旗本になる。

*2 佐竹   
久保田藩(秋田藩)の藩主、佐竹氏の下谷七軒町上屋敷跡

 

 榎本が生まれて3年後、1839(天保10)年に英国はアヘン戦争を起こし、英国―インド-清の三角貿易による利権を確かなものにします。その顛末を知った日本国内は、西洋列強への危機感が一気に沸騰します。

 

 釜次郎少年は、はしご乗りが得意で焼き団子が大好きでした。ある日、遊びに出かけて帰って来ると、「家にはなんで鎧兜が無いんだ、自分が大きくなったら鎧兜の五つや六つは置いてやる」と叫んだりもしました。

 

 三味線堀に同い年の荒井郁之助が住んでいて、荒井の家には鎧兜が置いてありました。ひょっとすると、年が近い仲間同士で遊び回ったとき、たまたま荒井の家に上がったら、家に鎧兜が置いてあることを知り、なんで自分の家には鎧兜がないんだろうと思ったのかも知れません。この時から負けず嫌いだったのでしょう。

荒井郁之助
1836(天保7)年6月12日~1909(明治42)年7月19日
 幕臣。砲術家。箱館戦争参加。開拓使出仕。初代中央気象台長。数理、地理。浦賀船渠発案者。

 

 少年、釜次郎は、田辺石庵の手習いでは、真面目に学び、家から持たされたお菓子を学友に分け与える、お利口さんでした。しかし、湯島天神下の木村お妙という御家流(おいえりゅう)書道の女師匠の手習いの稽古では、評判のいたずら者で、師匠の小言を無視して戦ごっこにうつつを抜かしていました。手習いによくある天神机を三段積み重ね、砂糖袋を頭にかぶり兜がわりにし、手習い草子を体に下げて鎧のようにし、はたきを采配にして餓鬼大将をしていました。親分肌だったようです。

田辺石庵
幕臣で明治政府の外交官の田辺太一の父親。尾張藩儒者、村瀬海輔。江戸で幕臣の田辺家の養子になり、改名。昌平坂学問所教授など。田辺太一の妻は荒井郁之助の妹。荒井は田辺家と親しかった。戸川安宅編『舊幕府』原書房、昭和46年(復刻原本=明治30年発行)の「榎本武揚子のおひたち」では、昌平坂学問所の素読吟味の後に、「田邊氏の門に入り亦た中濱万次郎氏に英語を習ふ」と書かれています。

 

 1853(嘉永6)年、18歳の釜次郎青年は、年初、昌平坂学問所の素読吟味(卒業試験)で、甲・乙・丙・落第の四段階評価の乙で、褒賞は貰いましたが、乙なので幕府への仕官の推薦を得られません。私生活では、銭湯の番台に座っている元花魁の若後家に恋に落ち、恋敵の手習い時代の知人を切り捨てても恋を成就させようとしたので、それを知った知人は逃げ、釜次郎青年は若後家の手を引いて八王子まで出かけていってしまいました。江戸時代、それ相当の理由が無ければ、武士は刀を抜くと切腹になりかねません。


戸川安宅編『舊幕府』昭和46年(復刻原本=明治30年発行)の『榎本武揚子のおひたち』から成績を引用しました。
小美濃清明『英語・英学事始め』(榎本隆充・高成田亨=編『近代日本の万能人 榎本武揚』藤原書店、2008)によると、大久保利謙編『昌平坂學科名録』立体社(江戸旧事采訪会)、1980(原本=大正4~10年発行)に収録の甲、乙の成績者名簿には榎本釜次郎の名前は無く、かつ丙の成績者は名簿が無いので、榎本釜次郎の成績は丙だったとも考えられています。

 

 この年の6月に開国を求めてペリー艦隊が浦賀に現れます。そして、10月にはクリミア戦争が始まります。ロシア対英・仏・オスマントルコ・サルデーニャ王国の連合国の戦いです。

 

 ペリー艦隊が浦賀に現れたとき、浦賀の与力、中島三郎助は自身を副奉行と詐称して旗艦サスケハナ号に乗船し、兵力や蒸気機関の調査を実施しました。サスケハナ号はじめペリー艦隊の艦船は多数の炸裂弾砲を装備していました。これら炸裂弾砲は、フランス砲兵将校、ペキサンスが開発し、1825年にその内容を公表した炸裂弾砲(ペキサンス砲、ボンベカノン砲、榴弾砲とも言う)でした。ペキサンスの炸裂弾砲は、従来の炸裂弾砲と違い、破壊力、殺傷力は桁違いに向上していました。

中島三郎助
1821(文政4)年2月27日~1869(明治2)年6月25日

幕臣。砲術家。日本初の洋式軍艦「鳳凰丸」を設計・製造監督。日本初の浦賀ドライドックを建設。
長崎海軍伝習所一期生。箱館戦争に参加し、戦死。中島を記念して浦賀船渠(株)が設立、建設される。俳人。

 

 炸裂弾とは、信管の爆破するタイミングを設定し、着弾前、着弾時、着弾後に起爆タイミングを設定し、金属破片などを広範囲にまき散らす弾丸です。ペキサンサスが開発した炸裂弾砲は、炸裂弾をより水平に、標的に向けて打ち出せるので、動的目標への攻撃能力が非常に高い艦砲です。また、地上で人々の頭上で爆発させれば、殺傷力が非常に高くなります。日本国内では、徳川幕府のみならず、日本全国の軍事関係者に炸裂弾砲の資料の写しが広まっていて、どのような兵器かを熟知されていました。

(今津浩一『ペリー提督の機密報告書』有限会社ハイデンス、2007)

 

 その結果、徳川幕府はペリー艦隊が日本側の主権を無視した行動にでても、戦火を避けるため我慢をして交戦せず(避戦方針)、外交交渉で決着を図る努力をします。ペリー艦隊の砲艦外交、炸裂弾砲の前に、日本の屈辱外交の歴史が始まりました。ペリー艦隊は一旦、浦賀を出航し、1854年3月に江戸湾に戻ってきました。そして、日米和親条約が締結され、開国が決まります。

 

 榎本は1854(安政元)年3月(19歳)、箱館奉行、堀利熙(ほりとしひろ)の小姓として蝦夷や樺太の(日露国境の)巡視に随行していました。後にペリー来日の時、蝦夷を闊歩していたと豪語しています。父、圓兵衛が、成績が乙で仕官への推薦がもらえず、おまけに若後家に夢中になっている息子の将来を案じ、すでに多くの人材が参加し、また投入されている日米外交ではなく、日英外交でもなく、これからの日露外交の進展に目を向け、息子が北方を舞台にしてなにがしかの役割を担えられるのではと計算したのかも知れません。榎本の安全保障は日露国境の確認から始まりました。

堀利照
1818(文政元)年7月21日~1860(万延元)年12月17日
旗本、日露和親条約締結前に国境設定のために蝦夷、樺太の巡回を行い、その後、箱館奉行になる。横浜開港に尽力。プロイセンとの条約交渉中、切腹する。

 

 ペリー提督が日本遠征に出発した1852年に書かれた海軍長官宛てのメモや『日本遠征記』から、ペリー提督の信念を知ることが出来ます。『メキシコからカリフォルニア地方を獲得したアメリカは、西海岸を越えて太平洋における領土拡大競争の場へ突入する』、『[キリスト教の]神は、文明開化の方法によってであれ、その他の方法によってであれ、アメリカ合衆国に対し、この風変わりな日本人を万国(nations)の一員とする先導役に指名した』、『太平洋に蒸気船航路を確立し、太平洋における商業・貿易を軍事力で統制すること(覇権の確立)を目指したもの』(そのために日本が必要)、『中国ではなくアメリカこそ「世界の中心」にふさわしい』

(今津浩一『ペリー提督と開国条約』有限会社ハイデンス、2011、[]内は著者補足)

 

 ペリー提督の『日本遠征記』の議会報告書は、1856年にワシントンから“Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China Seas and Japan”(『アメリカ海軍のシナ海および日本への遠征記』)というタイトルで発刊されました。その他、出版されたペリー提督の著作物を含め、榎本はペリー提督の野望を知り得たはずです。そこに、榎本のロシアの南下政策や朝鮮半島や清(中国)を舞台にした列強との衝突を避ける南方経営への示唆があったと考えてもおかしく無いでしょう。

 

 余談ですが、1945年9月2日、横須賀沖に停泊していたアメリカ海軍の戦艦ミズーリ上で日本と連合軍との降伏文書の調印が行われました。そのとき、甲板に二つの星条旗が掲げられました。その一つは、マッカーサーがこの日のために、アメリカ本土から取り寄せたペリー艦隊の旗艦サスケハナ号が掲げていた星条旗でした。まるで、ペリー提督以来の米軍の太平洋への野望が実現したことを誇示したかのようです。

 

 1854年(19歳)は、まだクリミア戦争は続行中でした。8月に英仏連合艦隊はカムチャッカ半島のロシア軍の基地を攻撃しに来ました。ロシアのプチャーチンはクリミア戦争開戦前、1853年8月に、長崎ですでに日本と和親条約の交渉を開始していました。ロシア艦隊が長崎にいるという情報を得た英国艦隊は9月に長崎港に入港し、ロシアに対する日本の局外中立を求めて交渉し、10月に日英和親条約を締結します。英露から和親条約(開港、難破船の船員救助、必需品の供給、領事駐在権など)を求められた日本は、クリミア戦争と無縁では無かったのです。

 

 クリミア戦争は1856年3月(21歳)にロシアの敗北をもって終了します。産業革命は戦争も変革させました。クリミア戦争で産業革命の核心である蒸気機関、電信、鋼鉄などが利用されました。工業生産力(戦争の産業化)が戦争の勝敗を決する必要条件であることを明確にした戦争でした。戦争形態の歴史的転換点と言えます。この歴史的転換点から榎本の軍人生活は始まります。

ウィリアム・H・マクニール『戦争の世界史(下) -技術と軍隊と社会―』中公文庫、2014

 

 榎本は蝦夷地、北蝦夷(樺太)巡視の翌年、1855年1月(20歳)に昌平坂学問所への再入学許可を得ます。あくまでも素読吟味で甲の評価を得て、仕官しようとしたのでしょう。10月に幕府は海防のため、長崎海軍伝習所を開設し、オランダ海軍の協力で海軍力の技術や知識の移転を開始します。どうしてそうなったのかの顛末は不明ですが、榎本は長崎海軍伝習所の員外聴講生になっていました。榎本は、翌1856年7月に昌平坂学問所に退寮願を提出し、許可されます。幕府の一般職につくことを止めて、海軍軍人としての人生を歩み始めます。

* 顛末は不明
榎本が長崎海軍伝習所へ入り込んだつてについては知られています。しかし、長崎海軍伝習所へ向かう決意はどのようなきっかけで行われたのか、何が影響して榎本の人生を変えたのか、その顛末は不明です。榎本が昌平坂学問所の素読吟味(学業期限による試験、卒業試験)を受けた頃、中浜万次郎(ジョン万次郎)の塾に入塾したと考えられています。万次郎は米国では航海に関する最新技術を学び、実務を経験して帰国しました。万次郎から世界情勢を学び、世界の最先端技術である蒸気機関のことを知り、Seamanship(シーマンシップ、橋本進『咸臨丸、大海をゆく』海文堂、2010)などが教えられと考えられます。列強国が工業社会へ変革し、物流が工業社会を支え、海上の物流を艦船が支え、その先端技術が蒸気機関であることを榎本が学べば、その時、まさに行き先は長崎海軍伝習所で、専攻は蒸気機関学だったのでしょう。長崎海軍伝習所で指導するオランダ側は、榎本と機関室の学生だけがまともに勉強やトレーニングに励んでいると記録しています。seamanship、シーマンシップを知らずして、当時の日本特有の身分制を機関室に持ち込まず、普通の船員のように業務に取り組めたとは思えません。榎本が長崎海軍伝習所へ向かう決意をしたきっかけは不明ですが、ジョン万次郎の影響が強かったと推定されます。

 

 榎本は、長崎海軍伝習所で、第二次オランダ海軍分遣隊司令官カッテンダイケから高い評価を受けていたことを以前、「Ⅱ. 産業技術立国(中編)」で紹介しました。他の伝習生と違い、機関室の伝習生は身分にこだわらずよく学んでいるとも褒められました。榎本は必死になって勉強したのでしょう。しかし、こんな大変なときでも、榎本は息抜きをしっかりやっていたようです。長崎海軍伝習所から歩いてすぐのところにある丸山へ夜な夜な遊びに行き、ついに門限に間に合わず、塀を飛び越えたところで見つかってしまいました。

 

 伝習所取締役の木村芥舟(かいしゅう)から榎本が大目玉を受けているところに勝海舟が飛んできて、榎本をかばい、門限を守ったからといって習学が進むわけでも無い、みんな大人なんだから門限なんか不要だと言って、門の鍵を壊してしまう騒ぎがありました。この頃すでに榎本と勝の特別な関係があったのかと思わせます。

* 木村芥舟
1830(文政13)年2月27日~1901(明治34)年12月9日

旗本。長崎海軍伝習所取締役、咸臨丸総督、軍艦奉行、勘定奉行等。福沢諭吉と交流。

 

 1856年(21歳)にロシアの南下政策はクリミア戦争で敗北し、失敗したので、南下先を求めてユーラシア大陸の東へと移動し続けます。1861(文久2)年2月3日、ロシア軍艦による対馬占領事件が勃発します。ロシア軍は対馬へ無断上陸、粗暴な行い、略奪、狩り、婦女子への不道徳行為、永久租借地の要求など、傍若無人な振る舞いを藩内士民に行いました。対馬藩は幕府と打ち合わせし、幕府側は英国と打ち合わせし、その結果、英国の艦隊が対馬に回航しロシア軍艦に対し示威行動を取り、英国側からもロシア側に厳重抗議しました。その結果、ロシアの軍艦は対馬から退去しました。1859年(24歳)に榎本は江戸の築地海軍操練所で教授方を勤めていました。1860年に父、圓兵衛は死去します。そして、この年、1861年に榎本は米国留学生に選ばれます。

 

・オランダ留学時代(1862.6.18~1867.3.26)

 

 徳川幕府は長崎海軍伝習所の設立の後、軍艦を米国に発注しようとします。しかし、南北戦争が起きたため米国は発注を断ります。幕府は発注先を米国からオランダに変更したので榎本の留学先は米国からオランダに変更されました。

 

 榎本がオランダに留学中、南北戦争での北軍の勝利、プロイセンが仕掛けた第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争(プロイセン=デンマーク戦争)と普墺(プロイセン=オーストリア)戦争、大西洋横断電信ケーブルの事業開始、マックスウェルの方程式(電気磁気学)の発表、といった出来事が欧米で起きました。これらの出来事から榎本は多大な影響を受けたはずです。

 

 電信技術は当初、社会活動での有用性、価値が分からないまま実験が進められました。電信技術に価値はあるのかという鉄道の経営陣の議論すらありました。1837年(榎本、2歳)に開始した英国のパディントン駅-ウエスト・ドレイン駅間の電信の実験区間を、1845年(榎本、10歳)にたまたま殺人犯がスラウ駅でパディントン駅行きの列車に飛び乗り逃亡を図りました。汽車に乗れば、馬で追っても追いつかれません。汽車に乗れば逃げ切れると犯人は考えました。

 

 しかし、犯人が列車に飛び乗ったスラウ駅から、パディントン駅へ電信で事件と犯人像に関する情報を打電されたため、パディントン駅で下車した犯人は逮捕されました。この事件を契機に人々は社会生活における電信の意義-ひと・もの・金の移動を制御する機能-情報が物流を制御することを自覚しました。

(チャールズ・シンガー他、田辺振太郎訳編『技術の歴史 8 産業革命下』筑摩書房、1979)

 

 驚くべきことに、この年、1845年(榎本、10歳)にすでにオランダ国内では一般公衆電信線の普及が始まります。1862年(27歳)に榎本達が日本を出帆しオランダへ向かう途中、ジャワ島近海で船は座礁し、留学生である日本人は無人島に置いてきぼりになります。留学生たちの友情のもとなんとか無人島を脱出し、オランダの植民地バタヴィアにたどり着くと、頭上には縦横に配線された電信線の束が見えたそうです。素早く時代を先取りするオランダへ榎本達は留学したのです。

 

 電信の意義を自覚した結果、英国は国内のみならず、ドーバー海峡間、欧米間、英国の植民地、ユーラシア大陸横断などなど、地球上に電信ケーブルを張り巡らします。榎本のオランダ留学した最後の年、1866年(榎本、31歳)に大西洋横断電信ケーブルは完成します。1902年(榎本、67歳)に大英帝国は、ALL RED LINEと呼ばれる電信網で植民地と本国は結ばれます。日英同盟を締結した年です。当時、英国の世界地図では植民地は赤く塗られていたので、この電信網の名称にREDという単語が入っています。通信を制するものは世界を制する。これは当時も現代も変わりません。

 

 1862(文久2)年6月(27歳)に出帆した榎本達は、1863年4月(28歳)にオランダのロッテルダムに到着し、分宿し、業務を開始します。1862(文久2)年~1864(文久4)年は、日本では重大な事態が起きていました。幕府は1862(文久2)年に朝廷から攘夷を迫られるも、実際に攘夷をしたら皇国が荒廃してしまうとして、武力衝突を伴わない攘夷を考えていました。具体的には交渉による横浜鎖港でした。

 

 しかし、攘夷派の勢いは高まるばかりで、1862(文久2)年8月の生麦事件の賠償金支払いは、文久3年2月に三回も延期が繰り返され、外国の新聞では日英戦争必死という記事が出回りました。江戸では1863(文久3)年3月(榎本、28歳)、既に、幕府が大名、旗本へ有事に備えることと江戸市中には外国と開戦するかもしれないと状況を伝え、具体的な対策を提示していました。

 

 1863(文久3年)7月(榎本、28歳)に英国議会でも生麦事件の損害賠償請求に伴う軍事行動について議論され、異論はありましたが、武力を背景とする賠償請求は当然の対応という結論に至りました。日英間の情報伝達は、早くとも一ヶ月半かかります。オランダにいた榎本達には速やかに英国議会の結論を知ることができたはずです。

 

 賠償金支払い問題を5月9日に幕府老中格、小笠原長行(ながみち)が決着させますが、次に横浜鎖港問題が取り上げられます。横浜鎖港問題は英仏にとって、個別の賠償金支払いの問題よりも遙かに大きな問題でした。また、薩英戦争以降、攘夷行為は個別の事件では無く、背後に幕府がいて、日本中で軍備強化が行われる国家的な行動ではないかという疑いを英国が持つようになり、その結果、条約各国は日本へ軍艦を増派しました。1863年末には日本情勢悪化の情報がヨーロッパ政界に広まりました。

 

 1864(元治元)年1月(榎本、29歳)に英国は対日戦争シミュレーションを策定します。一方、英国では、市民から、1863(文久3年)年の薩英戦争で、英国艦隊が予告無しに薩摩の街、木と紙でできた家の街を焦土と化したことは大量殺戮ではないか、非戦闘員への無差別攻撃ではないかという批判が起こり、また、ニューヨークタイムズ紙は同様の批判記事を掲載しました。2月に英国下院議会で文明諸国* が従うべき戦時国際法違反行為で遺憾であるという動議が提出されます。が、否決されました。

* 文明国
当時は、キリスト教国であることが前提でしたので、当時の日本は文明国に分類されていません。
杉原高嶺『基本国際法[第2版]』有斐閣、2014

 

 生命・財産の保護が必要とされた場合以外は、武力による威嚇、行使は認められないという原則に縛られたり、逆に利用したりする時代でした。日本情勢の悪化のニュースと欧米の議会や市民らの国際法による議論が起きていること、新聞も記事にして評論することを榎本はヨーロッパ側で把握していました。日本国内で英国から外交と軍事で厳しい圧力をかけられていますが、ヨーロッパ側と言うことは、日本側から見れば英国の舞台裏ですから、英国本国内の動き、関係国(条約国)の動きをすぐ近くのオランダにいて知ることは重要な知見です。

 

 1864(元治元)年2月(29歳)、榎本は留学生仲間に誘われ、オランダ人士官と共に第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争(プロイセンーデンマーク戦争)を観戦します。前線に向かって疾走する電信馬車を見たことが仲間の記録に書かれていました。榎本たちは日本の重大事態―列強と日本が戦争状態に陥るかも知れないという緊迫した状況のもと、一層緊張感をもって観戦したと考えられます。

 

 榎本の戦争体験がこの第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争を観戦した範囲だったと結論づけると、榎本への理解が狭くなります。まずは、米国に於ける南北戦争が原因でオランダへ軍艦の発注先が変わり、オランダへ榎本たちは来たのですから、軍人である榎本が南北戦争を調べないはずはありませんし、榎本の個人教授たちが解説しないはずがありません。

 

 英国にいた伊藤俊輔(後の伊藤博文)らは四国連合(英、仏、オランダ、米)による下関攻撃が近いことを知り、長州に戦争を止めさせるべく1864(元治元)年7月13日に横浜に到着し、長州へ戻ります。7月22日には四国連合は、20日以内に海峡封鎖を解除しなければ武力行使すると幕府に通達します。9月17日(29歳)に榎本は留学生仲間と共に約1ヶ月間、英国の視察へ出かけます。

 

 横浜、ロンドン間の通信に最短でも1ヶ月半はかかると言われていましたから、幕府は少なくとも7月22日直後にオランダにいる榎本達に英国での現地の情報収集を指示したか、オランダ側から勧められて英国の視察へ榎本達は出立したのかも知れません。

 

 1864(元治元)年9月5~7日の下関戦争に四カ国連合艦隊は完全勝利します。この勝利が江戸に伝わると、幕府は横浜鎖港要求を取り下げ、軍事的脅威は低下しますが、自由貿易体制の維持・拡大のためには軍事力の行使も辞せずという現実がより強化されました。この時期の『資本主義列強は、露骨な領土的要求をかかげて進出してくるわけではない。自由貿易体制への参加とその維持を求めてくるのである。しかし、その過程は、アジア諸国にとっては軍事的な威嚇と強要をともなう過程であり、その軋轢は大規模な戦争の原因ともなりえた』。

(国内の攘夷問題と横浜鎖港問題に伴う、条約国との摩擦、軋轢に関し、保谷徹『幕末日本と対外戦争の危機 下関戦争の舞台裏』吉川弘文館、2010から抜粋、要約、引用をした)

 

 南北戦争は、アメリカ合衆国が合衆国の北軍(23州)と合衆国を脱退した南部連合の南軍(11州)が1861年4月12日に開戦した内戦(American Civil War)でした。1865年4月9日(榎本、30歳)に終戦します。榎本はこの南北戦争の道徳、政治、経済の各領域での原因を把握したはずですし、この戦争では電信と鉄道を組み合わせた戦いに特徴があったことも理解したはずです。さらに、両軍合わせて約50万人もの戦死者が出る総力戦であったことに驚いたかも知れません。

 

 この年、1865年5月7日に、各国政府と各国の通信事業者とで構成された万国電信連合が、パリで設立されました。1850年に発足したドイツ=オーストリア電信連合と1855年に発足した西部欧州電信連合が前身の組織でした。料金体系、決済はフランス・フラン、国際電信の情報収集・通知はフランス語で行う、予算は加盟国が負担するなどが決められていきました。榎本がペテルブルクに駐露特命全権公使として駐在中の1875年に、ペテルブルクで万国電信連合の国際会議が開催されました。この会議に日本は正式に代表団を送り込みました。この国際会議では国家安全保障への脅威とみなされた電信への措置(条約)を決めました。(米国は会議への参加を拒否しました。米国企業は条約に準ずることにしました)

 

 当時、すでに、通信社という情報を収集し、情報を新聞社へ配信する事業が存在していました。1835年に新聞社にニュースを配信する企業、アヴァス通信社(Agence Havas、現フランス通信、AFP)がパリに誕生し、同時に広告代理事業も開始し、通信社の重要な収益源に成りました。次いで、1849年にドイツ(ベルリン)でヴォルフ電報局(Wolffs Telegraphisches Bureau)、1851年に英国(ロンドン)でロイター(Reuters)が事業を開始しました。通信社は当初、腕木通信や伝書鳩を利用していたため、情報の伝送効率が悪く、事業が安定しません。しかし、電信の実用化に成功し、陸上、海底を電信ケーブルが拡張されたため、電信を利用した通信社の事業は発展、拡大していきます。

 

 この年、1865年に、ドイツ政府から融資を受けたヴォルフは会社組織に成り、以後、政府からの援助は拡大します。。ロイターやアヴァスも同様に国家との結びつきを強めます。1859年から1870年にかけて、この三社は各社の地球上のテリトリーの分割を協議します。1870年の協定ではロイターのテリトリーに極東が含まれ、日本で受発信されるニュースをロイターが独占することになりました。日本はニュースの受発信を英国のロイターに依存することに、事業者間で決められていました。

(通信社について、有山輝雄『情報覇権と帝国日本 Ⅰ 海底ケーブルと通信社の誕生』吉川弘文館、2013を参照しました)

 

 南北戦争が終了した翌1866年6月7日(榎本、31歳)、第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争の延長線上にある普墺(プロイセン=オーストリア)戦争が起きます。二週間の戦いでプロイセンが勝利します。プロイセンの参謀、モルトケは、戦前すでにオーストリア国境に向け、複数の民間鉄道線と電信線を敷設しておきました。平時、鉄道は民間の経済活動に利用されますが、有事の際、電信を用いて軍隊の移動、作戦を統制します。

モルトケ
Helmuth Karl Bernhard Graf von Moltke、1800年10月26日~1891年4月24日
ドイツ参謀本部の完成者、参謀総長、ドイツ統一建設を推進、「戦争に時代や状況を飛び越えた一般原則は無い」「戦史に勝利の公式を見いだせない」「分散合撃、包囲一斉攻撃」

 

 モルトケは電信と鉄道を用いて分進合撃戦をオーストリアに仕掛け、プロイセンの最新技術を用いた兵器を利用して、オーストリアに勝利しました。そして、シュレースヴィヒ=ホルシュタインはプロイセン領になりました。この結果、プロイセンの狙うオーストリアを排除したドイツ統一へ向けて大きく前進することになりました。

 

 そして、8月5日(榎本、31歳)に大西洋横断電信ケーブルは事業を開始し、通信がヨーロッパと米国との金融や物流の乱調(hunting)を落ち着かせ、安定的な経済活動を維持し始めます。オランダにいる榎本の目の前で欧米はどんどん変化しています。

 

 榎本がオランダ留学時代にインストラクターを雇って電信の勉強をしたことは有名です。電信オタクのように思われがちですが、しかし、初代電気学会会長に就任し、最初の会合で、オランダから帰国する際に電信線敷設用の資材一式を軍艦開陽丸に積み込んだけれども、もっとも持ち帰りたかったものは鉄道だったと演説しました。榎本は軍人として、鉄道と電信の意義を理解して帰国しました。少し一般的な言い方をすれば、通信、制御、情報の重要性を理解して帰国しました。

 

 産業革命が社会へ起こした重大な変革とは、動物と暮らしていた人間社会に、金属や化学物質から成る機械が加わったことです。馬や牛の代わりに鉱物(化石燃料)を食べる動力機械が働き、伝書鳩が運んだ情報を通信機械が電流の変動として伝達するようになりました。その結果、経済活動や社会が大きく変化していきました。そして、戦争にも機械が参加することになり、戦い方が大きく変わりました。榎本はオランダで十分この大きな変化を学び、実感したと考えられます。

 

 オランダ留学時代に榎本は、フレデリックス*1からオルトラン*2の海律全書*3を学びました。軍艦を作って手に入れても、運転できても、どう使えるものか分からなければ宝の持ち腐れになります。軍艦の使い方を海律全書を学ぶところから始めます。ルールブックと事例(歴史)を学びました。

*1 フレデリックス
オランダ人、大学教員、作家、文学者、ハーグの家庭教師で日本人将校の教育を担当した。
榎本への献辞での肩書きは、帝国日本軍オランダ分遣隊の教師。

*2 オルトラン Théodore Ortolan(1808~1874) フランス海軍士官
*3 海律全書  ”Regles Internationales Et Diplomatic de la Mer"1845
『国際規則と海の外交』

 

 オルトランの海律全書はフランス語で書かれています。フレデリックスは榎本のためにオランダ語*に翻訳し、手書きして教材にしました。

* 海律全書のオランダ語訳名 “International regels en diplomatie der zee”

 

 1866(慶応2)年7月17日(榎本、31歳)に開陽丸は竣工しました。10月25日に開陽丸が横浜へ向けて出帆する一ヶ月前の9月に、フレデリックスは榎本へ『海律全書』を贈りました。その扉を開くと榎本への献辞が書かれています。榎本の『海律全書』を宮内庁の図書寮文庫のホームページで閲覧できます。

https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Toshoryo/Viewer/2000014960001/6069c32658eb45598c76f509a6773988

 

 産経新聞「日本人の足跡」取材班『日本人の足跡 ―世紀を越えた「足跡」を求めて―』扶桑社、2002で紹介された当時の慶応大学法学部明石欽司助教授の榎本への献辞の邦訳を紹介します。(一部、手を入れ、意訳しています)

 

『帝国海軍の榎本釜次郎へ、

 

 あなたは本書を読むため四百時間をかけました。私は最初、簡単に訳していましたが、あなたの理解が深いことを知り、正確に訳すようになりました。あなたは私が想像していた以上に教えることが簡単でした。

 それは、あなたの西洋史の正しい理解と、何よりも私たちの科学の豊富な知識がそうさせたのです。

 この作品(オランダ語に訳したこの本)は、日本軍オランダ分遣隊との思い出の中で、最も楽しい思い出になるでしょう。私たちの海軍の熟練した将校の意見では、あなたは海事国際法について予想以上の知識を持っています。それは私たちの共同の成果です。

 この本は私たちの共同作品です。それは、最も嬉しいこととして私の心に残っています。日本国民は偉大な海軍力を持つ運命にあります。その意味で私がこの仕事に協力することが出来たという思いで心が高鳴ります。

 大砲を多く持つのが得策という考えもあります。しかし、「知識は力なり」、という格言は普遍の真実です。あなたが知識を持って日本に帰ることで、あなたの美しく豊かな国、日本は必ずや国際連合の中に加わる存在になるでしょう。国家は栄枯盛衰から逃れることはできませんが、日本は次の時代に輝ける繁栄を手にすると信じています。

 

1866年9月
デン・ハーグ

フレデリックス』

私たちの科学
 明石欽司先生は『政治、経済などの社会科学』と邦訳

 

 いよいよ、榎本は開陽丸に乗ってオランダのフレッシング港を後にし、風雲逆巻く日本に向かいます。榎本はこのとき数えで31歳でした。

 

 

補足
 カリエール、坂野正高訳「外交談判法」という本があります。この本も合わせて榎本は学んだのでしょう。

 1716年にパリ原刊本が発行され、同年にブリュッセルとアムステルダムでフランス語版(原著とは若干の差があるらしい)が発行されました。そし てフランス語版全二巻の増補版が1750年にロンドンとオランダのライスワイクで出版されました。誰かが第二部を書き足したが原著ほどの格調の高さはないそうです。

 一部紹介します。
「立派な交渉家となるには、あらゆる知識を持っているとか、この上もなく機敏であるとか、その他いろいろと長所のある才気(エスプリ)の持主であるというだけでは足りない。その上に、心ばせが立派でなければならない。立振舞に、これほど、気品とか高雅さが必要とされる仕事はない」


この記事のコメント

  1. 高成田 享 より:

    蘭語訳の海律全書は、出版されていたものだと理解していました。榎本武揚自身も翻訳に深くかかわっていたのですね。これを理解できるのは榎本だけと言われた意味がやっと納得できました。

  2. 中山 昇一 より:

    ご指摘いただいて小生も気づきました。榎本が箱館戦争で敗北し、牢屋に入った後、助命運動として福沢諭吉が黒田から頼まれて、榎本が持っていた「海律全書」を訳そうとしたら難しく、このようなことを理解している榎本は生かすべきだと発言する予定で、本当にそう発言したのですが、それは本音なんですね。

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