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榎本武揚と国利民福 Ⅲ.安全保障(後編-2-1)

2020.12.10 Thu

The All Red Line map - British cable telegraphy 1902

(英国は植民地を地図上で赤色で表しました。植民地すべてをつなぐ電信線をThe All Red Line と呼びました)

 

国利民福 Ⅲ.安全保障-後編‐2‐1

 

・生きたる学問、戦争の学問

 

 

 1877(明治10)年5月2日付けで榎本はロシアから妻と姉に手紙を送り、露土開戦により、本国と連絡をとった結果、戦争が決着するまで日本への帰国を延期したことを伝えます。

 

 妻、多津にはまず、

『此の手紙を御読被成(なされ)候ハ、さそさそ力を御落し可被成と存候得共是も又日本国為なれハ無拠(よんどころなき)事ニて手前の病気抔(など)ニて帰られぬよりハましなりと今十ヶ月はかりも気永に御待可被成候』

と慰めます。

 

 さぁ、やっと帰国して御前ともようやく会って、今度こそずっと一緒に暮らせると思っていた矢先、帰国が延びたのでがっかりしたかもしれないけど、なんといってもお国の為なのですし、病気で帰国できなくなったのではないので、とにかく帰国する日を待っていてくださいと多津をなだめるように語ります。榎本は切なかったでしょう。

 

 そして、露土戦争について、

『今度之戦は手前心得是為にも大ニ益ニ相成り将又是迄之事情等も生きたる学問ニ相成右は毎便委敷(くわしく)相届ケ候ニ付政府は今度之事を尚しまい迄委敷知らん為め残り呉候様ニとの意ニ可有之と察せられ候』と書いています。

 

 今、幾度と大戦を戦った大国ロシアが近代化を遂げ、ヨーロッパ列強に囲まれた中、再び戦端を開きました。榎本は実戦経験がある軍人として、専門家として、ここで日本が経験したことが無い、列強、大国の戦いを視ずにはいられません。

 

 そして、自身が学んできた戦争の学問に対し、実際には戦争はどのような理論、論理で行われるのか、日々変化する戦場の状況に対し、現場や本国はどのように行動していくのか、さらには、日本が最も戦う可能性が高いとしている、つまり、仮想敵国であるロシアがどのような行動をするのかを知るまたとない機会でした。

 

 同日付で、姉のらくには、

『しかし(帰国が)一カ年も延び候事は可無之(これなかるべく)と存候。私情を以ていふときハ前文之命令は甚だ残念ながら実は時勢心得之為にも戦争之学問には得がたき好時節ニテ候。』と自身の現況を伝えます。

(下線は筆者)

 

 

・榎本の「戦争の学問」とは何か?

 

 

 榎本が長崎海軍伝習所に入所したときは、エンジニアとしての教育を受けていました。そこに、戦争とは、という講義の時間はあったのでしょうか。そういう科目はありません。ただ、時間外に軍艦はどのように用いられるのか、といった議論はあったでしょう。残念ながらそれを示唆する記録はありません。

 

 1862年、榎本たちがオランダへ軍艦開陽建艦監督を兼ねて留学に出発すると、翌1863年に勝海舟は神戸に徳川の海軍操練所建設の設立を目指します。

 

 勝海舟著、江藤淳・松浦玲編『氷川清話』講談社学術文庫、2006年、223頁の注に、『海舟秘録』で『神戸海軍操練所は日本・朝鮮・中国「三国合従連衡」構想の一環であると説明されていることは、注意されなければならない』と記されています。

 

 勝は大阪の仮住まいで、海軍操練所が開設するまで自身の私塾である海軍塾を開設し、1863年9月に神戸に操練所が設立されたとき、私塾も一緒に神戸へ移しました。そして、よく知られている話ですが、塾頭は坂本龍馬でした。

 

 しかし、翌年1864年6月の池田屋事件、7月の禁門の変に塾生がいたため、勝は江戸に召喚され、軍艦奉行を解任され、操練所は閉鎖になります。

 参考:https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000271582

 

 日・清・朝鮮の三国同盟論は、勝が長崎海軍伝習所にいたときにすでに構想していて、榎本らに語っていた可能性はあります。当然ながら、神戸操練所や勝の海軍塾で学ぶ者たちに、その構想を教えていたと考えるべきでしょう。

 

 この三国同盟論には、日本、清、朝鮮が同じ漢字を使う国だから仲良しで一緒に列強国、ロシアに対抗するだろうという前提があります。しかし、この前提は何の意味もなかったことは、その後判明します。

 

 榎本の戦争についての勉強は、オランダ留学時代に海律全書を勉強したことから、本格的に行われたと推察されます。

 

 当時の代表的な戦争論に、クラウゼヴィッツの遺稿として妻によって1832年に発表された『戦争論』があります。クラウゼヴィッツは戦争の特性と構造を明らかにし、さらに戦争を政治の手段や選択肢の一つのように考え、外交と軍事は国際政治の両輪のような存在、関係であることを明らかにしました。

クラウゼヴィッツ (1780年~1831年)プロイセン軍の将校。  プロイセンの非公式の軍事学会に入会し、学会の教育プログラムで学び、学術研究の様式、数学、論理学、歴史学、文学の一般教養および軍事学の専門知識において1803年に主席で卒業した。1806年10月にナポレオン戦争に近衛大隊副官として参加し、12月に捕虜になる。パリで捕虜の生活をし、フランス語の勉強やパリの見学、著述を行っている。翌年7月のフランスとプロイセンの講和後、クラウゼヴィッツは捕虜交換により釈放され帰国し、プロイセンの改革派に合流する。フランスと戦うため、1812年にロシア軍に従軍を希望し、ロシア軍中佐に任命され、1813年のフランス軍の敗北により、翌年プロイセン軍の大佐に復帰した。戦後は研究と著述に専念した。

 

 『海律全書』を教授したフレデリックス先生は、榎本はヨーロッパの歴史をよく知っているので『海律全書』の理解がスムーズだったとオランダから日本へ帰国する榎本に賛辞を送りました。スペイン、ポルトガル、英国、フランスなど海洋国の歴史をよく勉強したでしょうし、オランダ海軍の歴史も随分勉強したと考えられます。

 

 17世紀にオランダ海軍のマールテン・トロンプ提督*1やミヒール・デ・ロイテル提督*2らが大活躍した英蘭戦争*3のことや、英国海軍(東インド会社)を罠にかけ、モルッカ諸島を占領した戦いなどを聞かされたはずです。また、英国が海洋に進出する歴史も学んだはずです。ポルトガル、スペイン、英国、オランダなど海洋国家が列強になるためには、世界中の海に余すところ無く艦隊を派遣して、作戦を実行してきました。クリミア戦争のとき、英仏連合艦隊がカムチャッカ半島のロシア軍の基地を攻撃したことから、榎本は、戦争というのは、ポイントで行われるのではなく、地球規模で行われる、そういう指揮能力が必要であることを、海律とともに学んだはずです。

*1マールテン・トロンプ提督(1597年~1653年)オランダの海軍提督 1639年にダンケルクの海戦でスペイン艦隊を破り、同年ダウンズの海戦で上陸軍を含め、スペイン・ポルトガルの大艦隊を撃破した。第一次英蘭戦争を指揮し、勝利する。

*2 ミヒール・デ・ロイテル提督(1607年~1676年) オランダ海軍提督 第一次英蘭戦争に従軍、第二次英蘭戦争、第三次英蘭戦争を指揮し勝利した。第三次英蘭戦争はロイテルの戦略的勝利と言われている。

*3 英蘭戦争 オランダと英国が制海権を巡って激しい戦争を繰り返した。第一次英蘭戦争=1652年~1654年、第二次英蘭戦争=1665年~1667年、第三次英蘭戦争=1672年~1674年(フランスがオランダに侵攻した際、英仏同盟により英仏連合艦隊はオランダ上陸作戦を行うが敗退)、第四次英蘭戦争=1780年~1784年(一旦英蘭同盟が結ばれ、戦争が沈下しましたが、米国独立戦争でオランダが米国側を援助したため起きた戦争。この後、オランダの海軍力は英国の海軍力に及ばなくなり、オランダは英国に対抗できなくなり、英国の保護国化が始まる)

 

 マハンの『海上権力史論』が1890年に発表され、世に海軍の戦争論が登場します。帆船時代の戦争を研究した成果ですが、軍艦が帆船でも蒸気船でも変わらない議論があるようです。榎本がオランダに留学していた時期にはシーパワーを論じた、マハンの『海上権力史論』1890年は存在せず、個々に海戦史が論ぜられていたので、榎本の頭の中に国家における海軍の役割、海戦史が示唆するところはどう入って行ったのでしょうか。

マハン (1840年~1914年) 米国海軍軍人、海軍少将。歴史家、戦略研究者。1885年に『メキシコ湾と内海』を刊行し、高い評価を得たので海軍大学で講義をした。マハンはその講義内容をまとめ、1890年に古典的な海洋戦略書として有名な『海上権力史論』(The Influence of Sea Power upon History, 1660~1783)を刊行した。この本は、金子堅太郎らが日本に紹介したので、日本で知られるようになったと言われている。水行社が訳し、1896年(明治29年)に東邦協会から邦訳本が刊行された。榎本は東邦協会の会員であった。東邦協会には海軍軍人の会員が多く、会が収集した海外の諸情報は「東邦協会報告」という雑誌に掲載された。東邦協会には付属のロシア語学校があった。

 

 

 オランダ留学のため、江戸を出帆した榎本達の船は、ナポレオン(1769-1821)の終焉の地、セントヘレナ島に1863年3月26日に寄港し、三日間碇泊し、ナポレオン寓居(ロングウッド・ハウス)や墓地、その他ナポレオン所縁の地を訪問します。訪問中、ナポレオン軍での元軍人ですでに退役した人物*が、榎本ら、日本人の留学生との面会を希望したので、その人物の家も訪問しました。

* 退役した人物   赤松大三郎は、航海日記に「寓居を訪問後、若いころナポレオン軍(大佐と考えられる)の軍人ですでに退役し、ナポレオンに従ってセントヘレナ島へ渡り、ナポレオンの死後、葬儀や改葬をした70歳代の男性が、留学生たちとの面会を希望したので、彼の家に寄った」と記録した。

 

 

 ナポレオンは1821年に死去します。セントヘレナ島は1833年から英国の王領直轄地となりましたが、1869年のスエズ運河開通後は交通量が激減しました。遠洋航海をしている船舶にとって、セントヘレナ島は水、燃料などの補給基地でした。

 

 オランダ留学に向かう途中、榎本はバタビヤを出帆する前日の1862年12月22日から日記を書き始めますが、セントヘレナ島へ寄港する前日の1863年3月22日で終わっています。しかも、捨てようとしていました。榎本が捨てようとしているとき、留学生仲間が気づき榎本に頼んで日記をもらい受けました。そして、昭和になって公開されました。その日記は榎本の『渡欄日記』と呼ばれています。『渡欄日記』の最後の日のお終いあたりに次のように書いています。

 

 『是明朝を以て入口するためなり。晩方鮮月在天夕陽(ゆうやけの明るい月)の余照未(だ)散 (ら)ず、残紅中に鳥影屹立し(島の姿は高くそびえ)、烈翁(ナポレオン)の事を想ひ出されて坐(そぞろ)に懐古の情長し。』

 

 いよいよ明日、セントヘレナ島に寄港することになり、ナポレオンのことを思い起こし、榎本の心にさざなみを起こしたようです。榎本のナポレオン認識とはどのようなものだったのでしょうか。

 

 岩下哲典『幕末日本とナポレオン情報』「日本研究」再考:北欧の実践から、2012、pp209-214で、ナポレオンは日本国内へどう紹介されたのか、以下のように論じています。以下は抜粋と要約です。

 

「1826年に天文方はナポレオンに関し、情報収集を開始します。オランダはナポレオン帝国の第三の都市になっていました。そのためか、オランダ商館の風説書ではナポレオンの情報に触れなかったので、幕府は別ルートでナポレオンの情報を入手しました。

 

 収集されたナポレオンに関する文献はは天文方で翻訳されましたが、天文方での翻訳作業は中断させられます。そこで、天文方は翻訳を継続する蘭学者を任命し、蘭学者によって1839年まで翻訳作業は継続し、その結果、1857年にナポレオンの伝記が出版されました。

 

 従来の伝記はワーテルローの戦いに特化していましたが、最後の伝記本にはナポレオン革命の言及がありました。それを読んで強く感化された人々、佐久間象山、吉田松陰はナポレオンに関する漢詩を作り、西郷隆盛は自らと重ねたなど、幕末の志士に大きな影響を与えました。

 

 徳川慶喜が大政奉還の建白書に含みを残した狙いは、自身がナポレオン皇帝になろうとしたのですが、念願叶わず、明治天皇がナポレオンになったのでしょう。」

 

 大政奉還後、敗戦を続けた旧徳川幕臣たちと榎本らは、徳川家所縁(ゆかり)の人を担ぎ、徳川公国を蝦夷に建国することを、朝廷に許可を求めました。これは、大政奉還以後、朝廷や薩長に対し、榎本らの一歩下がっての交渉でした。蝦夷嶋政権は軍事政権(海賊?)でしたが、徳川家をナポレオン皇帝の位置にもっていこうとか、ましてや、榎本自身がナポレオンになろうとしたのではありません。

 

 榎本も巷のナポレオンの伝記本を読んでいたでしょう。しかし、榎本に対し、米国社会で教育を受け、生活をしたジョン万次郎はナポレオンをどうのように紹介したでしょうか、さらには、長崎海軍伝習で最優秀と賞賛したオランダ海軍のカッティングディーケからどのようにナポレオンの解説を聞いたのでしょうか。ナポレオンの個々の戦略、戦闘、戦術に対し、ナポレオンの戦争が歴史の中で何を意味しているのか、セントヘレナ島でナポレオンが論じた次の一文に集約されています。

 

『戦争はやがて時代錯誤になろうとしている。われわれが全大陸で数々の戦闘を交えて来たのは、二つの社会が相対峙していたからである。すなわち1789年から始まった社会と旧制度とが。この二つの社会は両立できないものであった。若い社会が古い社会を貪り食った。結局、戦争が私を―フランス革命の代表者であり、フランス革命の諸原理の道具である私を、打ち倒したということを私はよく承知している。しかし、そんなことはどうでもよい。私が打ち倒されたことは文明が戦いに敗れたことである。私の言葉を信じ給え、文明は復讐をするであろう。二つのシステムがある、すなわち過去と未来とである。現在はつらい過度期にすぎない。何が勝ち誇るべきであるか?未来が勝ち誇るべきではないか?とすれば、未来は知性であり、産業であり、平和である。過去は暴力であり、特権であり、無知であった。われわれの戦勝のおのおのは革命の思想の勝利であった。勝利はいつの日にか大砲もなく銃剣もなしに達成されるのであろう』

(オクターヴ・オブリ編、大塚幸男訳『ナポレオン言行録』岩波文庫、1983)

 

 

 1789年から始まった社会とは、フランス革命(1789.7.14~1795.8.22)後の社会のことです。ナポレオンはここで革命前は暴力、特権(独占)、無知が支配する社会だったと言っています。ナポレオンが言う文明とは、平和で自由で知識が支配する社会です。

 

 ナポレオンは世界で最初の理工学大学である、エコールポリテクニークを創設しました。

エコールポリテクニーク École polytechnique  1794年,旧体制下の土木学校や工兵学校を母体に,高級技術将校の養成を目指してパリに設立された。当初は〈公共事業中央学校École Centrale des Travaux Publics〉として開校,95年に改称。当時のフランスを代表する一流科学者たちが教授陣を構成し,各地から学力試験によって選抜され入学した青年たちを厳しく教育した。(世界大百科事典 第2版)

 

 

 産業革命が起きるまでエンジニアとは工兵だけを指しました。エコールポリテクニークはエンジニア養成大学です。エコールポリテクニークでのカリキュラムでは、当時最先端の解析数学、幾何図法、設計法、物質科学の知識など、戦場への備え、戦時中の必要な物資調達と製造法などを科学知識に基づいて教育しました。あらゆる形而上学的論考を排し、科学知識を教え、知識の応用を訓練する学校です。後に箱館でともに戦ったフランス軍事顧問団の一人、フランス陸軍砲兵大尉のブリュネはエコールポリテクニークの卒業生でした。榎本とブリュネとは非常に馬が合ったでしょう。

 

 そして、「勝利は戦争をせずに達成される時代がくる」とナポレオンは予言して死んでいきました。榎本は、この言葉を頭の片隅に起きながら、列強との戦争に勝つためにオランダへ向かって行きました。

 

 もう一つナポレオンに関連して注目すべきは、『ナポレオン言行録』の解題に、『ナポレオンは、つとに若き日から、近代世界における新聞の重要性を理解していた。フランス革命は新聞なくしては成らなかったであろう。すべての政治的運命は世論の支持を必要とする。されば彼はジャーナリストであった。』とナポレオンの特徴を紹介しています。このナポレオンの特徴が、後の榎本の新聞、世論への強いこだわりに影響を与えたのかもしれません。

 

 幕末の榎本がナポレオンの戦争論に遭遇していたとしなければ、明治の榎本を説明できません。榎本のドラマを作成するなら、ナポレオンの影響としてこの二つのことに触れずにはいられないと思います。

 

 榎本の戦争論は、クラウゼヴィッツやマハンのような軍人の戦争論を超えた、文明論としての戦争論になっていったのだろうと考えられます。そういう眼で、ロシア‐トルコ戦争を見ようとしていたのでしょう。

 

 

・サンクト・ペテルブルクの公館の様子

 

 

 榎本はサンクト・ペテルブルクの公使館に着任後、姉に「花房書記官始外三人、手前とも通計五人一所ニ住居候。むろん手前之居間は四十畳許ノ間一ト間、外ニ寝所十五畳程。大金は継ノ間ニ住わせ候・・・」と書状を書いて伝えています。花房は花房義質(よしもと、1842年~1917年、元岡山藩士)です。樺太千島交換条約が締結されると翌年、朝鮮代理公使として異動します。大金は榎本の従者、大岡金太郎です。大金は、ロシアの競争力ある、金になる技術を習得しました。

 

 

 この最初の公館は海軍省の建物の裏手でネヴァ川に面していました。「ネヴァ川畔にあるビィビィコフというロシア人の大邸宅を年九千ルーブル(6500両)で借りていたもの」でした。

 

 榎本が姉に送った手紙には、ネヴァ川は江戸両国の隅田川の二倍の幅が有り、無数の蒸気船が行き来していると書いています。榎本はその景色を気に入っていました。

 

 当初、公使館の人員構成は、外務省5名、留学生2名でした。榎本春之助(榎本の次男)のシベリア日記の写本の最終頁に、大正6年3月27日付で「岡野義之氏が書きたるを写す」と前書きされた「在魯公使館創立当時在勤員」の一覧があり、中村博愛を抜いた、6名が記載されています。理由は分かりません。

 

海軍中将兼特命全権公使 榎本武揚 静岡県士

外務大丞兼一等書    花房義質 岡山県士

外務省二等書記官    中村博愛 鹿児島県士

魯語通訳        市川文吉 東京府士

外務省二等書記生    内藤忠順 静岡県士

留学生         寺見機一 岡山県士

同           西徳次郎 鹿児島県士

 

加えて、公使館付の職員に、以下の人たちがいました。

 

曰本公使館付医師兼学術調査官 ポンペ(オランダ人医師、長崎・オランダでの榎本の恩師の一人)

榎本の従者 大岡金太郎

門番・料理人・別当・小使など 10名

 

* 宮永 孝『幕末ロシア留学生 市川文吉のこと』法政大学学術機関リポジトリ、1991、120頁

 

 

 ポンペ先生の肩書は医師兼学術調査官ですが、ロシア政府に対しスパイ活動もしていました。榎本は樺太の領土交渉中に一度だけ本省宛の報告書でポンぺ先生の諜報活動の成果に触れたことがあります。オランダ人だからできたのでしょう。英露関係から、当時、英国へ留学した人物をサンクト・ペテルブルクへ送り込むことは効果的ではなく、榎本はオランダ留学生でしたので、ロシア側も受け入れやすかったはずです。

 

 ロシアの皇帝以下が、榎本に好意的に接した背景に、箱館戦争は英国を後ろ盾にした薩長政府に対し、フランス陸軍の志願兵(義勇兵?)が加わり徹底的に抗戦した徳川幕府脱走軍との戦いで、リーダーの榎本は日本人には稀な優秀さ、先見性、国際性を示した、というロシア側の認識があったのでしょう。

 

中村博愛 1844~1902 外交官、官僚、政治家

幕末の薩摩藩士で、長崎でオランダ人軍医から医学、藩の開成所で英学を学び、後に薩摩から密出国し、英国で化学を学び、フランスでフランス語を学び帰国する。藩の開成所でフランス語を教えた。西郷従道と山縣有朋の欧州視察に通弁官として随行した後、政府に出仕し、明治6年(1873年)10月25日から外務省二等書記官になり、魯国公使在勤になる。

 

市川文吉 1847~1927 ロシア語教師

幕府の蕃書調査所の仏学稽古人、仏学科教授手伝並だったところ、1865年にロシアに派遣する留学生の一人に選ばれた。文吉の父が開成所で教授をしていた文吉の父親(広島藩士)の推薦により留学し、サンクト・ペテルブルクにいた。明治維新後もサンクト・ペテルブルクに残り、日本の開国にかかわったプチャーチンの邸宅に住み、ロシアの文学作家イワン・ゴンチャロフの指導を受け、勉学を続けた。明治6年に帰国し、東京外国語学校(外語大の前身)のロシア語教師になるが、榎本が駐ロ全権公使になると榎本に随行して再びサンクト・ペテルブルクへ行き、公使館勤務になった。榎本のシベリア横断旅行に随行して帰国した。

 

内藤忠順 外務省職員

『明治五年四月改 諸官省官員録』で外務省十一等小録の欄に名前がある。琉球大学『琉球国王家・尚家文書の総合的研究』琉球大学学術リポジトリ、2008、348頁に、明治六年十月二十日にお礼の品を贈る相手のリストの中に、二等書記生として記録されている。

 

寺見機一 1848-1903 外交官、実業家。
嘉永(かえい)元年5月1日生まれ。明治6年ロシアにわたりペテルブルグ大で学ぶ。帰国後外務省に入り、ロシア公使館書記官となる。23年北海道庁典獄(てんごく、でんごく。監獄の長)。のち日本郵船ウラジオストク支店長として対ロシア貿易に尽力した。

 

西徳次郎

明治三年からロシアに留学し、大久保利通からロシア政体調査を委託される。サンクト・ペテルブルク大学法制科を卒業し、フランス公使館二等書記見習を経て、1878年2月からロシア公使館二等書記官、後に代理公使になり、ユーラシア大陸の各地を旅し、1886年に報告書『中亜細亜紀事』が陸軍から出版された。その後、外交官として活躍した。

 

大岡金太郎 1844~1900(正確ではない)

箱館戦争に幕臣、松平太郎の従者として参戦した。明治11年に陸地測量部から地図の写真電気銅版製版法を導入するために雇用され、地図の印刷技術の開発を続け、その技術を確立させ、地図が発行された。明治33年、陸地測量部長から褒章が与えられた。明治20年出版の陸地測量部の地形図に「電胎製版~陸軍八等技手:大岡金太郎」と書かれている。榎本が開拓に取り組んだ、対雁(江別市)の農場は、明治6年に宮城県涌谷移民跡地(北海道)の払下げを大岡金太郎の名義で購入した。現在、榎本公園があり、顕彰碑と銅像がある。(https://ebetsunopporo.com/?p=18845#i-4)

 

 

・日本との通信事情

 

郵便

 

 英国またはフランスの郵便船が用いられていました。榎本は「飛脚船」と呼んでいました。日本発の郵便はヨーロパのどこかでペテルブルク行きの郵便船に乗せ替えて50から60日かかったようです。

 

 榎本が山六さんと呼んでいる、山内六三郎(榎本が農商務大臣時代に企画した八幡製鐵所の初代所長)は日本から米国経由でロシアの榎本に手紙を出していました。この場合は40日で届いたそうです。

 

 明治10年9月24日付けの多津宛の手紙では出した手紙が多津に届くのに二ヶ月かかると書いています。

 

 妻、多津への手紙で、あの件の事情を知りたければ、誰々さんへの手紙に詳しく書いて送ってあるので、その手紙を見せてもらってくださいと書いています。榎本から手紙を受けとった人は、榎本の手紙にこんなことが書いてあったと知り合いにふれてまわることはなかったようです。

 

 

電信

 

 サンクト・ペテルブルクの電信局は榎本らが最後に引っ越した日本公使館の一つ先の通りの角にあったようです。

 

 榎本はペテルブルグに着任して妻宛の最初の手紙で「外務省からの電信は長崎からこちらへ二昼夜半、こちらから東京へは四五日以内、英文字二十語で大凡二十三から四両で英語を常とす」(明治7年7月30日付け)と電信の所要日数を伝えています。さらに、丁寧に日本語は届かずと書き添えています。自宅でなにか急なことがあった時のために、多津に電信の事情を伝えたのでしょう。

 

 当時、英文字20語まで4ポンド6シリング、長崎から日本国内へは無料です。榎本の話から、当時、4ポンド6シリングが23,4両に相当していたことが分かります。現在価値に換算するといくらなのでしょうか。換算の基準はいろいろ有りますが、1両を3,800円として安く見積もっても、87,400円、1ポンドが数万円としたら、24、5万円です。その幅の中の金額なら、大変高価です。個人は本当になにかあったときにしか使えません。

 

 当時すでに英文字や数字などで作ったコード表を用い、文字数を節約してメッセージを送る手段は用いられていました。榎本は、サンクト・ペテルブルクに駐在していたとき、妻とのやりとりにコード表を使った形跡は有りませんが、後に清国駐在全権公使となった時は、妻にコード表を送り、電信を利用する用意をしていました。

 

 大北電信会社*1は、明治4年6月に長崎―上海間、同年8月に長崎―ウラジオストック間に海底ケーブルを敷設しました。明治4年の暮れにウラジオストックに陸揚げされた海底ケーブルはシベリア陸線に接続され、ユーラシア大陸を横断しヨーロッパへ至る欧亜陸上電信線(陸上線、陸線)*2に接続され、長崎からロシア経由でヨーロッパへ電文を送るルートが完成しました。そして、明治5年(1872年)1月1日に日本の国際通信サービスは開始されました。

 

*1 大北電信会社(The Great Northern Telegraph Company)  デンマークのティットゲン(創立者、C.F.Tietgen、1829‐1901)の電信線網敷設戦略を実現させるために、Danish-Norwegian-English Telegraph Company、Danish-Russian Telegraph Company、Norwegian-British Submarine Telegraph Company の三社が1869年6月1日に合併して誕生した電信会社。

ロシア政府は1869年5月5日に自費でシベリア電信線を建設し、清国、日本との連結交渉に着手する旨の発表をした。ロシアの清国への進出、英国の海上支配、米国パワーの西進に対抗するためである。大北電信会社はこの発表を知り、ポシエト(沿海地方)―清国間の電信線敷設認可を得るためにありとあらゆる手練手管を用い、ロシア政府から認可を得た。その背景には、英国の電信会社が政府の支援のもと、英国および植民地間の陸路・海路をケーブルで結び、The All Red Line(英国の地図上で植民地は赤色に塗られることからくる名称)という地球規模の電信網を完成させようとするが、ロシアは電信網敷設へ参入できずにいた。アジアとヨーロッパの東西を結ぶ電信線の安全性を検討すると、デンマークは中立国なので大国間で紛争が生じても中立政策のおかげで電信の安全が守られる、すでにロシアは大北電信会社にプロイセンを迂回して英仏と結ばれる電信線を発注済みで実績がある、といった理由だった。

明治3年にロシアに設立された「大北中日電信延伸会社」(EXTENSION COMPANYと略称で呼ばれていた)が海底ケーブルの敷設を希望していると函館駐在のロシア領事代理が日本政府に持ちかけました。この会社は実質的に大北電信会社です。形の上で大北電信会社の理事がいったん退職し、デンマークの特命全権公使になり、表向きは公人として寺島外務大輔(がいむだいほ、外務次官に相当する)と交渉しました。明治3年のことです。公使(大北電信側)の交渉は強烈でしたが、英国公使のパークスは交渉に介入し正面切って反対しました。しかし、寺島が助言を受けていた英国のパークスは、大北電信は英国系企業の中国海底ケーブル会社(The China Submarine Company, 1871年にシンガポールと香港の間に海底ケーブルを敷設)に、香港以南へは海底ケーブルを敷設しないことを密約していることを知ると、英国の利益が関係しているので、実質上、大北電信の代理人であるデンマークの特命全権公使に協力し、長崎-ウラジオストク、長崎-上海の海底ケーブルに限定して日本政府から許可を得た方が、話を進めやすいと親しくアドバイスしました。そして、パークスは日本政府には急いで国内の電信網を建設するように圧力をかけ、その結果、英国製品を大量に日本政府に買わせたのでした。大北電信会社の日本進出は東洋での拡張政策を展開していた列強諸国間で戦われていた代理戦争の一環で、主戦場はあくまでも清国でした。寺島外務大輔は実質、大北電信会社との交渉からその事実を、身をもって知らされました。国際的な視野に立つ植民地主義的外交官の交渉術を学んだに違いありません。

そして、榎本が牢にいる間に、榎本らを抜きに、薩長政府は列強との厳しい交渉を生き抜き、国内のインフラ整備をどんどん進めました。幕末、日本が開国前は密出国による留学、開国後は、各藩から多数の留学生が欧米へ渡り、勉学に励んで帰国しました。幕末から明治初めには国内には人材豊富でした。そういう優秀な人材が多数いるなかで榎本の何が抜き出ていたのかを検討する必要があります。単なる留学生の一部だったのか、それともさらに優れた人材だったのか。

以上は、

  • 長島要一『雑誌日本歴史1995年8月号 大北電信会社の日本進出とその背景』日本歴史学会、567号
  • 大北電信株式会社 編, 国際電信電話株式会社 監訳『大北電信株式会社百年略史1869-1969(日本語版)』国際電信電話会社、1972

からの抜粋、要約です。

*2 欧亜陸上電信線 ユーラシア大陸を横断する電信線の敷設ルートは、シベリア鉄道建設予定地に沿って建設され、鉄道より先に完成した。

 

 電文は電信会社が中身を覗くことができるので、送受信者間の秘密が守られません。暗号を使えば、場合によっては破棄されることもあります。電信を支配するものが世界を支配するとまで言われました。榎本と本国との電信による情報連絡にはそのようなことは無かったようです。

 

 榎本がサンクト・ペテルブルクに着任した1874年(明治7年)は、サンクト・ペテルブルクから東京へ送信した電文はユーラシア大陸を横断する電信線(欧亜陸上電信線)を利用しているので、最短距離で送られたことになります。1875年(明治8年)の正月三日の妻宛の手紙の追伸に、「12月27日午前10時東京発の電文は、同日午後7時25分に公使館に届けられた」と書いています。

 

 サンクト・ペテルブルクで明治7年12月27日午後7時25分は、日本時間で12月28日午前1時25分です。東京で送信された電文が公使館に到着するまでの所要時間は15時間25分でした。榎本が着任した明治7年7月3日に長崎とサンクト・ペテルブルクの間の電信は二昼夜くらいかかると言っていました。但し、二昼夜に時差が含まれたままなら、二昼夜から時差の6時間を引き、42時間が長崎―サンクト・ペテルブルク間の電信の所要時間だったことになります。随分、所要時間は改善されました。

 

 この世界地図は、1891年(明治24年)の電信線の系統図です。すでに地球上にこれだけ電信線が張めぐされています。その後、電信線の系統数はさらに増え続けます。日露戦争(1904年)でバルチック艦隊は英国の電信網に負けたと言っても過言ではありません。

 

 

(サンクト・ペテルブルクの普段の生活へ続く)

 

 


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