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榎本武揚と国利民福 Ⅲ.安全保障(後編-3-2-1-A)

2021.03.19 Fri

・中央アジアで英露のグレートゲームが始まる

榎本武揚と国利民福 Ⅲ.安全保障(後編-3-2-1)

 

・The Great Gameのはじまり ・・・ 恐露病の発症

 

 

・The Great Gameへの道

 

 1801年初、ロシアの皇帝パーヴェル一世 (在位、1796‐1801)は、今は亡き母のエカチェリーナ二世(1729‐1796)が10年前に立てたインド侵略案をフランスのナポレオン皇帝にもちかけます。しかし、ナポレオンからパーヴェル一世に、「その地は不毛でも野蛮でもなく、シルクロードとして昔から栄えてきた土地で、・・・」と反論され、賛同を得られません。

 

 パーヴェル一世はインド侵攻をロシア単独で実行することにし、1月24日に2,200人のコサック兵に英領印度に向けて出動命令を出します。1月8日にはすでにカルトリ・カヘティ王国(現、東ジョージア)の併合を宣言していました。英領印度侵攻のため、ロシアの都市、オレンブルグを出発した兵士たちは、最初、1600キロも離れたヒヴァを目指し、極寒の中を出発しました。

 

 インドへ向かう途中、ヒヴァやブハラで奴隷として捕えられているロシア人を解放し軍に編入し、反英的な部族と戦わず親露に引きずり込みながら進軍するよう命じられていました。但し、地理情報はオクサス河(現在のアム・ダリア川)までしかなく、その先は指揮官の責任で入手することになっていました。この時は、皇帝や参謀は、インドへの進撃路ばかりか、インドそのものや、英軍の配置すら必要な情報を持っていないにもかかわらず命令を下しました。

 

 兵士たちがアラル海北岸に辿り着いたところへロシアの伝令が駆け付け、パーヴェル皇帝が3月11日に暗殺された後、3月23日に即位した皇帝アレクサンドル一世により遠征が中止になったことを伝えます。兵士たちは極寒の中で全滅せずに済みました。

 

 

カフカス総督府の設置(英語でコーカサス)と対ペルシャの英国外交の見誤り

 

 アレクサンドル一世は、その年、1801年9月12日、ロシア軍をコーカサスに侵入させ、カルトリ・カヘティ王国(現、東ジョージア)の併合を実行し、トビリシにカフカス総督府を設置します。ロシア軍はさらにペルシャ領土のアルメニアに侵入し、首都を包囲しました。また、総督府の司令官は、ペルシャの背後の英国に対抗するためグルジア軍道の建設、整備に着手し、1863年に完成させます。1804年にペルシャはアルメニア奪還に向け出兵し、ロシアと交戦状態になりますが、劣勢の状態におかれます。(1813年、英国の仲介でゴレスターン条約を締結し停戦します)

 

 この情報をペルシャに送り込んである秘密情報部員(agent)から受けたナポレオンは、直にペルシャの王(シャー)にロシアの撃退を援助する代わりに、ペルシャをインド侵略の陸橋(ランドブリッジ)に使わせるように申し入れます。英国東インド会社のベンガル総督からペルシャへ送り込まれた使節団が、ペルシャと安全保障条約を結び、1801年1月に盛大な見送りを受けながら引き揚げた後でした。英国からの援助を当てにしていたペルシャ王には何時まで経っても英国から援助が来ません。

 

 ペルシャと英国との条約は英国本国では条約の有効性に疑問が持たれ、批准されていなかったのです。一方、ナポレオンの脅威に対抗するため、英国は第四次対仏大同盟(1806年10月6日-1807年7月7日)に参加し、ロシアと軍事同盟の関係になっていました。ついにペルシャは英国からの援助を諦め、1807年5月4日にナポレオンとのフィンケンスタイン条約に調印し、英国との関係を断絶しました。12月24日にフランスの軍事顧問団がペルシャに到着します。

 

 

・仏露のインド侵攻の密約

 

 1807年7月、1806年のイエナの戦いで勝利したナポレオン一世は、敗戦国のプロイセン、ロシアと会談します。会談の内容が漏れないよう、わざわざネマン川の筏の上で会談しました。そして、7日にロシアと、9日にプロイセンと条約が結ばれました。ティルジット条約と呼ばれています。

 

 このとき、実行されることは無かったのですが、仏露連合軍でコンスタンチノーブル(現在のイスタンブール)を攻略し、両国で分かち合い、撃破したトルコ領内と、フランスと軍事同盟の関係があるペルシャ領内を通過してインドへ侵攻するという案がフランスからロシアに提示されました。

 

 

・英国外交の巻き返し

 

 漏れないはずのこの情報は、英国の秘密情報部員(secret service)がロンドンに伝えるところとなり、英国政府と東インド会社を震撼させました。1808年に、英国政府は、以前、ペルシャとの間で起こしたトラブルを解決し、信頼関係を構築しなおそうと、トラブルシューターを英国のベンガル総督府からペルシャへ送りました。

 

 しかし、英国のトラブルシューターはすぐにはテヘランに入れてもらえず、そう簡単には事態を動かせずにいました。フランス側の妨害もありましたが、ペルシャ王は仏露の密約を知ることになり王は迷っていました。トラブルシューターはベンガル総督府へ帰ることになりました。

 

 その後、ついにペルシャ王は、アルメニアを包囲したロシア軍を撃退するために、フランスが役立たないことを悟り、1809年3月12日に英国と条約を結び、フランス軍事顧問団を退去させました。そして、1810年2月に英国のベンガル総督府から派遣された軍事顧問団がテヘラン入りします。

 

 

・The Great Gameのキックオフ

 

 ベンガル総督府から送り込まれた軍事顧問団には将校たちとは別に若い士官たちも混じっていました。若き士官たちは情報機関に所属していました。彼らに与えられた密命は、英国にとって無知である、ペルシャ、アフガン及びアジア内陸部の情報を収集し、ロシアの南下を阻止する戦略活動をすることです。それは命がけの探査行でした。一方、ロシア軍の若き士官たちは、ロシア人を躊躇なく拉致し、その結果、三千人を超えるといわれるロシア人を奴隷にし、さらに人身売買をしている恐怖の中央アジアに潜入し、インドへ至る道を探し始めます。

 

 西はコーカサスから東はチベットまでをチェスの盤面のようにとらえ、広大な盤面上で自国の覇権をかけ、英露双方の若き士官たちの壮絶な戦い - The Great Game*1 は、1810年に開始されました。このゲームは、、1907年に英露間でペルシャ、アフガン、チベットでの英露の勢力範囲を取り決めた英露協商*2を結ぶまで続けられました。

 

*1  The Great Gameを命名した人物は、英陸軍のコノリー大尉でした。1840年7月、33歳のコノリー大尉(Arthur Conolly、1807‐1842、16歳のときラグビー高から英国陸軍へ)は、アフガニスタンの都市、カンダハールに着任した新任の政治代理⼈(The new political officer)、ローリンソン少佐に中央アジアから、You’ve a great game, a noble game, before you’(あなたは、素晴らしいゲーム、⾼貴なゲームをあなたの前に持っている)と手紙に書きました。これが、この英露のゲームでこの用語が使われた最初であると言われています。

*2 英露協商(Anglo-Russian Entente ) ロシアが1905年に日露戦争に敗北し、一方、ドイツがバルカン半島への進出を狙ったため、ドイツの影響力を抑え込むため、英露協商、露仏同盟、英仏協商が締結された。これら三つをまとめて、三国協商(英仏露協商)と呼ばれている。協商とはフランス語のEntente Cordialeから生じた外交用語で、同盟と友好関係の中間的位置(条約を求めない)にあり、国家間の係争点を調整し友好を維持する取り決め。

 

 

・The Great Gameの命名者の運命

 

 1840年7月にこの英露の情報戦、戦略活動をThe Great Gameと名づけた英陸軍のコノリー大尉(33歳)は、この年9月、ヒヴァのハーン(遊牧民の王)に暖かく迎えられていました。

 

 コノリーは「中央アジア連邦結成」(a voluntary Central Asian federation)をハーンに持ち掛けますが、ハーンは全く興味を示しません。コノリーは明らかにブハラとコーカンドとの同盟を嫌うハーンに失望してコーカンド・ハーンに移動します。しかし、ここでもハーンは同じ反応を示し、逆にブハラに侵攻することを考えていました。

 

 この提案は、榎本ら興亜会の、アジアの諸国は人的交流や交易を通して交誼を深め植民地支配から独立しようという、「初期アジア主義」と呼ばれる活動と似ています。しかし、重大な違いがあります。榎本らの「初期アジア主義」は欧米列強に侵略されている当事者が当事者たちに呼び掛けています。それに対し、コノリー大尉がもちかけた「中央アジア連邦結成」は、侵略国の情報部員が被侵略国の国王にもちかけた提案です。

 

 これではどこの国へいって提案しても難色を示されてしまいます。「中央アジア連邦」は、英国のために結成され、中央アジア諸国、部族を十把一絡げ(じっぱひとからげ)にして、まとめてペルシャのように英国に支配されるか、英露から半々に支配されることになります。つまり、英国が英領印度を守るため、中央アジアの半分をロシアに支配させないという策略です。

 

 その後、コノリー大尉は、仲間のブハラに潜入したところブハラの警察に捕まり幽閉されている大佐と連絡が取れたので、彼を救出しにブハラへ向かいました。これは、コノリー大尉をブハラへおびき寄せる罠だったと言われています。コノリー大尉がブハラに到着して暫くすると、ブハラの首長(Emir、イスラムで王に相当する)と英国のパーマストン外相との手紙のやりとりがこじれ、コノリー大尉も首長に捕らえられ、幽閉されてしまいます。

 

 そして、1842年の6月のある朝、二人は土牢から引きずり出され、アーク要塞の前の広場(the great square before the Ark)に集まった群衆と首長の前で、順番に斬首され、広場の近くで自ら掘らされたとされる墓穴に葬られました。コノリー大尉は35歳でした。The Great Game のプレーヤーである若き士官たちたちには過酷な運命が待っていたのです。

 

Ark要塞前の広場

(引用元 http://inoues.net/family/uzubekistan/uzubekistan4_2.html)

 

 

 下記地図は、グレートゲームの盤面上でのロシアの支配地が南へ拡大する様子を示しています。薄紫色の楕円曲線はグレートゲームの領域を示しています。黒線は榎本がサンクトペテルブルクからウラジオストクまで旅行した概略経路を示しています。

(R.I.ムーア編、中村英勝訳『世界歴史地図』東京書籍、昭和57年)

 

 

・「恐露病」・・・発症する

 

 19世紀初、ロシアと英領印度の前線は3200キロ離れていましたが、The Great Gameの結果、19世紀終わりには数百キロ、パミール高原ではわずか30キロまでに迫ってきました。ロシアは中央アジアの国々を征服する都度、何度も「これが最後の征服である。我々はインドに野望を抱くものではない」と繰り返し発表しましたが、英国人には、それはロシアの壮大な計画の一部でしかないと思わせました。

 

 ロシアは一方では、「インド人には北からの医者」が必要だ、インド人は、北の医者から処方箋と薬―武器、弾薬―を与えられれば確実に独立できるとまで言い出しました。

 

 ロシアからの公式発表では平和主義者に化けたコメント、非公式には敵を恫喝するコメントを英国に発信しました。英国人の心の中で着実にロシアへの恐怖が膨らみ続けました。これが「恐露病」(Russophobes)です。

 

 この差し迫る英領印度へのロシアの魔の手に対し、英国内では、「前進政策(forward policy)」、「後退政策(backward policy)」または「紳士的無作為(masterly inactivity)」が議論されました。「前進政策(forward policy)」、とは、ロシアに対し先手を取ってアフガニスタンと中央アジアへ進出し、緩衝国や衛星国を作る政策です。

 

 大多数の人々は、ロシアに対抗できる手段は「前進政策」だと考え、また、英印度軍の若手士官も同様の考えでした。若手士官たちは、アジア内陸部の沙漠や山岳地帯で苦難と冒険に満ちた活動をし、昇進や歴史に名を残そうとしました。

 

 一方、「後退政策」または「紳士的無作為」とは、英印度軍は前へ出ず、厳しい環境と険しい地形の中でロシアの補給線をなるべき引き延ばし、ロシア兵をなるべく消耗させて英印度軍の防衛線に到達させるという政策です。「前進政策」より遥かに安上がりです。しかしながら、どちらの政策も併存していきました。

 

 一旦、下記地図に示された範囲で、ロシア帝国の南下は止まりました。そして、ロシア領内では社会インフラが整備され、近代化が進みました。そのために多数の強制労働収容所が利用されたことが分かります。ロシアが新規に土地を開発するときに囚人を移住させ、労働させることに影響されたのか、榎本は小笠原などの開発に囚人を移送して、労働させることを提言しています。

 

(R.I.ムーア編、中村英勝訳『世界歴史地図』東京書籍、昭和57年)

 

榎本武揚と国利民福 Ⅲ.安全保障(後編-3-2-1-B) に続く。

 

 本項は、主に次の文献から参照、引用、要約を行い、作成されました。

  1. ピーター・ホップカーク著、京谷公雄訳『ザ・グレート・ゲーム 内陸アジアをめぐる英露のスパイ合戦』
  2. 中央公論社、1992
  3. Hopkirk, Peter. ‘The Great Game: On Secret Service in High Asia’  John Murray Press. Kindle 版, 1901
  4. 歴史学研究会編『世界史年表』岩波書店、1994
  5. 『詳説 世界史研究』山川出版、2018
  6. 『山川 詳説世界史図録(第2版)』山川出版、2018
  7. R.I.ムーア編、中村英勝訳『世界歴史地図』東京書籍、昭和57年
  8. 天野尚樹「極東における帝立ロシア地理学協会:サハリン地理調査を手掛かりとして(ロシアの中のアジア/アジアの中 のロシア(3)」『スラブ・ユーラシア学の構築』研究報告書(17)、2006-09

 


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