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福島原発事故から10年後の証言の迫力

2021.07.09 Fri

大津波に襲われた福島第一原発で何が起きていたのか。それを追い続ける共同通信原発事故取材班の連載が佳境を迎えている。

「全電源喪失の記憶」の通しタイトルで2014年から続く連載は、7月6日から第5部「1号機爆発」が始まった。地震による激しい揺れ、そして襲ってきた大津波。原発の運転に欠かせない電源がすべて失われた時、原発の中央制御室にいた当直長と運転員たちは何を考え、どう動いたのか。それを当事者たちの証言で綴っている。

第5部の1回目の見出しは「DGトリップ!」」である。原発は、電力の供給が止まった場合、複数の非常用ディーゼル発電機(Diesel Generator, DG)が自動的に動き出し、原子炉を制御できるようになっている。1号機と2号機にはそれぞれ2台の非常用発電機が備えられていた。万が一、2台とも動かなくなっても隣の原子炉用の発電機から電気が供給される仕組みになっていた。

ところが、30分ほどして大津波が襲来し、ディーゼル発電機が水につかってしまった。電源盤も水浸しになったため、別の発電機の電気を回すことも不可能になった。すべての電源が失われた(トリップした)のである。その瞬間、中央制御室にいた運転員が叫んだ言葉が「DGトリップ!」だった。

事故当時、福島第一原発の1、2号機の中央制御室で当直長をしていた伊沢郁夫の証言。「心の中で弱気になったのはあの瞬間だけですね。打つ手がないという状況は人生の中で初めてでしたから」。当事者の生の証言は、政府や東京電力がまとめた事故報告書のいかなる表現よりも、現場の衝撃の大きさを端的に示している。

第5部の2回目(7月7日付)に載っている伊沢の証言も印象的だ。原発の運転員たちは様々な事故に備えてトレーニングを受けていた。その訓練の内容と現実とのギャップを、伊沢はこう語っている。「どんなに厳しい訓練でも常に最後は電源があるわけです。それがないという現実が分かったときのショック。『どうしよう、とにかく考えるんだ』って思いました」。

この証言は、日本政府や電力各社、原発メーカーが振りまいてきた「安全神話」がいかにでたらめなものだったかを示している。電力会社は原発事故に備えて保険に入っていた。その保険は、炉心溶融を含む過酷事故をも含むものだった。

ところが、事故に備えた訓練は「常に電源がある」条件で行われていた。つまり、最も厳しい局面でどう対処するか、については訓練すらしていなかったのである。欺瞞であり、国民に対する背信行為と言うしかない。

連載の3回目にも、政府と電力会社の欺瞞を示す証言が登場する。当直長の1人、遠藤英由の証言。3月11日の夜、すべての電源が失われ、運転員たちは原子炉の水位や温度を示す計器を読むことすらできない絶望的な状況に追い込まれていた。遠藤は述懐する。「スクラム(原子炉緊急停止)から時間がたっていて、まだ水を入れられていない。『これはもう炉心が駄目になっているだろうね』と話していました」

原発事故に対応する現場では、「炉心溶融は避けられない」と覚悟していた。にもかかわらず、当時の民主党政権と東京電力はそれを認めようとしなかった。新聞に「炉心溶融」の見出しが載ると、政府は「何を根拠に炉心溶融と書くのか」と猛烈な圧力をかけ、その表現を撤回させた。事実を捻じ曲げようと必死になったのである。

そうした中にも救いはあった。4回目の連載記事(9日付)では、原子炉格納容器が爆発するのを防ぐために運転員たちがベントを試みる様子が描かれている。大量被曝を避けられない、危険きわまりない現場に誰が行くか。

当直長の伊沢郁夫は「まず俺が行く」と言った。だが、応援に駆け付けた別の当直長は「君はここに残って仕切ってくれなきゃ駄目だ。俺らが行く」と言い返す。若手の運転員たちも「私も行きます」と次々に手を挙げた。命をかけて、名乗り出たのだった。

福島の原発事故をあの規模で抑え込むことができたのは、さまざまな幸運に恵まれたのに加えて、こうした運転員たちを含む現場の覚悟があったからだ。「行きます」と名乗り出た時の運転員たちの胸のうちを思うと、今でも目頭が熱くなる。

それに引き換え、東京電力の首脳たちはどうだ。2008年の段階で「最悪の場合、高さ15メートルの津波が来ることもあり得る」という報告が内部から上がってきていたのに、「信頼性に疑問がある」などと難癖をつけてその報告を退け、有効な津波対策に乗り出すことを拒んだ。

東京電力の会長、勝俣恒久、社長の清水正孝、副社長の武藤栄・・・。当時の首脳は誰一人、潔く責任を認めようとしない。「万死に値する判断ミス」を犯しておきながら、いまだに責任を逃れようとあがき続けている。

ぶざまな事故対応に終始した、当時の首相、菅直人や経済産業相の海江田万里、官房長官の枝野幸男ら民主党政権の首脳たちにしても、何が足りなかったのか、どう対応すべきだったのかについて率直に語るのを聞いたことがない。

二流のトップを一流の現場が支える。それが日本社会の伝統なのか。コロナ禍でも同じことが繰り返される、と覚悟しなければなるまい。

(敬称略)

長岡 昇 (NPO「ブナの森」代表)

 

*このコラムは、山形新聞に掲載された共同通信配信の連載をもとに書いています。共同通信の「全電源喪失の記憶」の初期の連載は、祥伝社から2015年に出版されています。今回の連載も本にまとめ、出版されるかもしれません。朝日新聞や読売新聞は共同通信と国内記事の配信を受ける契約を結んでいないため掲載できず、読者は読むことができません。

 

≪写真説明&Source≫

照明が点灯した福島第一原発の中央制御室=2011年3月26日、時事通信社

https://www.jiji.com/jc/d4?p=gen100-jlp10647542&d=d4_topics


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