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榎本武揚と国利民福 Ⅳ.最終編 序章(続)

2021.09.28 Tue

序章(続) 明治中頃「国益」は忽然と消え、人々は「国利民福」を口にした
(出典 森山市左衛門『心の修養』)

 

 

・新政府の中央集権専制国家

 

 国内は旧幕府系の東軍と新政府系の西軍による内戦状態でしたが、新政府は明治元年3月14日(1868年4月6日)、五箇条の御誓文を宣布し、翌日旧幕府の高札を撤去し、新たに太政官名*1による五榜*2を掲示しました。

 

 そして、4月11日(1868年5月3日)に江戸城が無血開城されると新政府は西軍の優勢は確定したと判断し、閏4月21日(6月11日)に政体(政体書のこと、政治や統治形態を示す)を制定し、27日に頒行(頒布・施行)しました。7月17日(9月3日)に東京奠都*3が行われました。こうして新政府は専制的な全国統治へ向けた活動を開始しました。

 

 尚、国民が目にした五榜の掲示の第四札に「萬國ノ公法」を遵守し攘夷をするなと書かれています。『ウラジヴォストークと長崎を結ぶ点と線(後編)』で取り上げた、朴 炳渉『山陰地方民の鬱陵島侵入の始まり』(鳥取短期大学北東アジア文化総合研究所 2009.10 )で、『万国公報の名前すら一般にほとんど知られていない時代にあって、(明治16年(1883年)に)内田がそうした主張で切り返したことは驚嘆に値する。そうした知識を内田が身につけたのは榎本武揚の影響ではないかと容易に推測される。と論じられたことが、ここでも誤りであることが分かります。

*1 だじょうかん、明治維新後の慶応4年(1867年)1月から明治18年(1885年)12月の内閣制度発足までの間、国政を行った最高官庁。
*2 国民に対する禁止令を書いた五つの高札、奥羽列藩同盟を除いた地域に設置した。
*3 てんと 新政府は、同年7月17日(9月3日)に江戸を東京と改称し、京都に加え新たに東京を都に定めた。そして、9月8日(10月28日)に元号を明治へ改元した。

 

 

 豊臣秀吉の刀狩り令(1588)により始まった兵農分離(徳川幕府の職分固定制度-士農工商)は、明治政府による明治5年11月の徴兵告諭 (太政官が新たな兵制を国民に告げた) 、翌年1月徴兵令(国民皆兵)の公布をもって終了しました。明治4年の「学制」、明治6年の「地租改正」と「兵制」の三点セットの富国強兵策が開始されました。これらの明治政府の政策に各地で強い反発が起き、一揆は全国で拡大しました。

 

 明治4年の廃藩置県により、旧幕府の封建体制は消滅し、中央集権国家-日本が誕生しました。その後、明治9年3月に太政官は士族を対象に廃刀令を布告し、士族の武装解除が強行されました。さらに8月に華族・士族に対し秩禄処分を行いました。この結果、封建制度による支配層は公債の利子生活者となり、士族は没落しました。そして、今度は、士族がこれら政策に対し強い不満をもち、その後たびたび士族反乱が起こされました。

 

 岩倉具視(1825-1883、公家)は、明治4年に明治政府内で右大臣並びに遣外使節団特命全権大使になり、薩長などの政府要人を副使に加え、明治4年11月から明治6年9月まで、米欧12カ国を歴訪しました。公式報告書は『特命全権大使 米欧回覧実記』としてまとめられていることは広く知られています。

木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳(佐賀藩)

 

 

 岩倉使節団出発後の政府を維持しつつ懸案事項の処理にあたるために組織された国内体制は「留守政府」と呼ばれました。使節団は出発前に留守政府の業務遂行について取り決めをしましたが、留守政府はその取り決めを逸脱して仕事を進めました。そのため使節団が帰国した後、留守政府の要人たちとの間で対立が生じ、政争に発展しました。

 

 そして、政争は征韓論を巡り頂点に達しました。西郷隆盛を代表とする征韓派と岩倉と共に米欧を歴訪した要人らによる非征韓派との対立、政争でした。明治6年10月24日の西郷の辞表提出、翌25日の征韓派の辞表提出まで激しい政争が繰り広げられました。「征韓実行論の重要な根拠が士族反乱の防止にあったとすれば、征韓反対論の重要な根拠は、激増する農民一揆の防止にあったといえよう。」(原口清『日本近代国家の形成』岩波、1968)

板垣退助、江藤新平、副島種臣

 

 

 政争に負け下野した板垣退助らは自由民権運動を開始し、運動は人々の不満を吸収しながら全国に展開し、活発化しました。明治23年の第一回帝国議会が開催されるまでの間の明治新政府を自由民権論者は有司専制と批判しました。江戸時代の諸藩(諸国)が、18世紀半ば頃登場した富国強兵論による専制政治を行ったことと同様に、明治新政府も富国強兵策を採る専制国家でした。明治新政府の富国強兵策も18世紀中頃に富国強兵策を採った諸藩(諸国)と同じように人民の生活を圧迫しました。

ゆうしせんせい 「有司」とは官僚を指す。五箇条の御誓文により、国民による「公論興義」を重んじるとしたにも関わらず、明治政府は薩長土肥の有力者による官僚が権力を掌握し政治を行った。特に明治6年の征韓論の激突で政争に勝利した大久保利通、松方正義、伊藤博文、木戸孝允ら官僚による政治支配を「有司専制」であると自由民権派は明治政府を批判した。明治政府での権力闘争に敗北し下野した勢力の反政府スローガン。

 

 

 

・用語「国益」の誕生と消滅

 

 

 江戸時代中頃から用いられた言葉、「国益」は、1960年代に日本国内であらためて使用されるようになった日本国の諸外国に対する国際政治や経済面での利益を総称する「国益」概念とは異なり、江戸時代に「日本語として自生的に生まれ定着していたと考えられる」経済概念でした。建白書などの書面では「御国益」(ごこくえき)と書かれました。

 

「国益」という言葉は、「徳川中期の宝暦~天明(1751~1788)期に、諸大名領国の商品生産・手工業における国産物自給自足の思想・藩経済自立の思想をあらわす経済思想=経済概念装置として登場してくる。」と説明されています。

藤田貞一郎『近世経済思想の研究』(吉川弘文館、昭和41年)、藤田貞一郎『国益思想の系譜と展開』(清文堂書店、1998)、藤田貞一郎『近代日本経済史研究の新視覚』(清文堂書店、2003)、落合 功『国益思想の源流』同成社、2016、武田晴人『日本経済思想史2004 第9回』2004年度冬学期(https://ocw.u-tokyo.ac.jp/lecture_files/eco_06/9/notes/ja/JET-09.pdf)

 

 

 当時、日本国内には大坂、京都、江戸に中央市場があり、各藩(封建制度下の日本の諸国)は中央市場で生活必需品を購入(調達)していました。藩経済が中央市場依存を止め、領民が自藩(自国)で商品の内製化に努め、藩内(国内)での自給自足を推進することで中央市場からの調達を減らし、さらに藩内産品を中央市場へ卸し、他藩(他国)へ拡販することが「国益」でした。経済的には藩(諸国)の領民に利益をもたらし、藩(国)の貿易収支を改善することでした。

ここで言う「藩」とは、封建制度下、一万石以上の領地を有する支配機構-諸国を指す通用語。江戸時代には「藩」は公称ではなかった。江戸時代に藩は260前後存在した。江戸時代には、「各藩」とは「各国」であり、日本国全体を「天下」と言った。

 

 

・明治時代に「国益」は生き続けた

 

 

 豚肉が大好きだった一橋慶喜は「ブター」というあだ名があり、一橋家に仕えていた角田米三郎(1825-?)は、明治2年に養豚事業の建白書を民部省に提出し、官許を得て公金(国庫補助金)が下賜され、「協救社」を設立しました。協救社に出資すれば出資金の3割の利付で返還されるという宣伝を行いました。協救社が発行した宣伝文書には「飢饉のとき上流の人々に五穀を供し、庶民が牛羊豚を食すれば国家のためになり・・・」と書かれ、「身を捨てて皇国に仕える豚」と言われました。政府と東京府は協救社を保護し、明治3年初めに現在の築地2丁目が養豚場として下賜され、官許事業になりました。市中の腐敗物や米麦の洗い水までも集めて養豚飼料とするよう触(フレ)が出されました。(引用元「東京都公文書館だより」第3号)

 

 協救社から発行された雑誌『協救社衍義(エンギ)草稿』には角田の養豚事業での「国益」を紹介しています。角田の養豚事業が政府や東京府から保護された理由は、角田が企画した事業は、旧幕臣らを含む貧民救済、更に救済対象に僧侶が含まれ、僧侶にも生活の途を与えようとした点にありました。(藤田貞一郎『近代日本経済史研究の新視角』清文堂出版、2003)

 

 渋沢栄一は、明治2年、静岡藩に商法会所を設立した後、明治政府へ出仕し、明治4年に大蔵省紙幣頭となり、翌明治5年に大蔵少輔事務取扱になりました。同年、渋沢栄一の親族、友人らを発起人とし、抄紙会社創立*1を大蔵省紙幣寮へ申請します。後の王子製紙株式会社の母体でした。その時の文書では投資効果を説明する用語に「国益」を用いました。後に渋沢は、大蔵省時代に、地方の事業家らが建白書に「国益」、「国家事業」を乱用し、国庫金の補助を求めたことを『青淵百話.乾』(同文館、明治45)の「三三 事業家と国家的観念」の一節で以下のごとく批判しています。

 

 「国家社会と通有*2的関係ある事業の外は其の呼称(「国益」、「国家事業」)を許されないのである。而して国民の利益とか民衆の幸福とかいふことは、事業其のものとは別に離れて存しなければならぬのであろうと思ふ。」(藤田貞一郎『近世経済思想の研究』吉川弘文館、昭和41年)

*1 しょうし、紙をすくこと
*2  つうゆう、一般の人・物に共通して備わっていること。

 

 

 ところがかくのごとく乱用された「国益」に異変が起こりました。

 

 色川大吉・我部政男監修『明治建白書集成』全九巻(筑摩書房)は、慶応4年(1868)1月から明治23年12月までの期間の可能な限りの建白・提言・請願類を収集した史料集です。「国益」をキーワードとしてこの史料集を分析した、藤田貞一郎『明治前期「国益」思想追跡行の一里塚』によると、「国益」という言葉は徳川幕府時代から明治時代にも引き継がれ、前記した概念として用いられ続けましたが、明治22年(1869年)1月以降は、「一切見出し得ない」と指摘しています。

『同志社商学』第54巻 第5-6号、2003年3月。尚、「国益民福」はまれに登場する。

 

 

 渋沢が批判したほど乱用された「国益」という文字が、明治22年以降、忽然と消えたのです。一方、明治10年頃から20年頃にかけて、世間では「国利民福」を口にするようになりました。

 

 

 

・「政党政治」と「国利民福」

 

 

 明治天皇の五箇条の御誓文により、徳川幕府の職分制(職業区分制)-士農工商は終わりました。そして、時を経て議会政治が始まり、以前のように政治や戦争は武士の専業では無くなり、今まで政治とは関係できないと思っていた庶民全員が政治を考える時代になり、庶民全員が兵士になる時代になりました、。

 

 明治16、7年頃の流行歌「ダイナマイトどん」で、「国利民福増進して民力休養し、もしもならなやきママ、 ダイナマイトドン」と庶民に向け歌われました。明治6年に大井憲太郎が翻訳した『仏国政典』では「国益民福」が用いられましたが、明治20年の大井憲太郎著書の『自由略論』の文中では「国利民福」が用いられました。また加波山事件*1を扱った本でも「国利民福」が用いられました。

 

 明治16年に内務卿に就任した山縣有朋は自由民権派を弾圧しました。しかし、風向きが変わったのか、明治19年の公文書*2に「国利民福」を書き加えました。前年の18年に初代内閣が発足し、第一回帝国議会開催が明治23年に予定されました。帝国議会の開催が始まると国家予算は帝国議会の承認(当時は「協賛」と称した)を必要とします。そして、議会は圧倒的に自由民権派の議員、政党で占められます。山縣は自由民権派の国家予算への影響を意識し、すでに明治19年には、予算獲得のために自由民権派が日頃強く主張している「民力休養」や「国利民福」といった言葉を意識する必要がありました。

 

 明治40年の国防方針の陸軍側の原案には、国家目標は含まれていなかったので、海軍側から押し込んだとも考えられますが、しかし、国防方針で描かれた軍事行動を遂行するためには、必要とする軍事予算を議会から承認を得る必要がありました。軍部が国家目標に「国利民福の増進」を据え、政党から軍事予算の了解を得やすいように工夫をしたと考えられます。

*1 明治17年に起きた事件。松方デフレと増税(明治14年)による農民の没落、困窮を背景に専制政府の転覆を掲げた最初の挙兵。

*2 JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A15111239900、福島県下磐城国上湯長谷村ヨリ小名浜村海岸ニ至ルノ間ニ於テ石炭運搬ノ為メ馬車鉄路布設ヲ認可ス(国立公文書館)

 

 

 「国利」は「国益」と同じなのでしょうか。「国益」同様に「国利」も「民利」*1を基準としている概念なのでしょうか。「国利民福」の誕生についてはいろいろ想像できますが、「国益民福」は8文字、「国利民福」は7文字です。明治10年代半ばに壮士節*2「ダイナマイト節」を作詞する過程で、「国益民福」を取りこもうとするも8文字なので、七五調にするために7文字の言葉「国利民福」が誕生したのだろうかとも考えられます。

*1「国益」と「民利」の関係について、小関悠一郎『江戸時代の「富国強兵」論と「民利」の思想』(日本歴史846:2018.11)では、『植林政策が領主の「利」にならなくとも、民の「利」とさえなれば、それは「御国益」に叶う』という広島藩での植林政策の例など複数の事例を紹介し、『「民利」の確保が(藩の)政策の基準とされていた』と結論づけている。「上に利することなく下ばかり利するとも是御国益也」広島藩執政堀江典膳から郡奉行所へ宛てた「御山方内考之意見書」(文化6年、1809) 出典『日本林制資料』岡山藩・広島藩、臨川書店、1971

*2 そうしぶし、参照「演歌」https://kotobank.jp/word/%E6%BC%94%E6%AD%8C-170980

 

 

・「国利民福」に真面目に取組んだ榎本武揚

 

 

 榎本が国利民福に言及した事例を列挙してみます。榎本は真面目に「国利民福」の増進に取組んでいたことが分かります。榎本が明治政府の非主流派だからといって自由民権派だったとも結論づけられませんが、長くオランダ留学を通してヨーロッパの歴史を学び、サンクト・ペテルブルクに居してロシアでの民衆運動が自由を求めていたことを目の当たりにし、日本の社会が専制体制から議会制民主主義体制へ移行していくことに、なんの疑問も抱かなかったと考えられます。

 

1.明治8年、榎本は、サンクトペテルブルクから本省への報告書で、交渉経過と千島列島の風土物産に関する報告に加え、「諸(外)国の新聞が、日本が樺太を放棄することを報じているが、それが代物の交渉のささいなものにまで影響し、結果、損益に影響する、私は国論と国利を苦心して斟酌(しんしゃく)しているので政府は注意して欲しい」と政府に苦情を申し立てています。「国益」は元々諸藩ごと、各藩の経済政策でした。榎本がここで使った「国利」は国際社会の中での統一国家日本の「利益」を言い、経済的利益だけでなく軍略的利益など国家安全保障まで含める幅広い領域での「利益」でした。

 

2.明治21年、榎本が初代逓信大臣のとき、部下が函館海底(電信)ケーブル敷設工事は自分たちにとって難工事であることを理由に外国企業の大北電信(デンマーク国籍の企業)に外注しようとしました。そこで、榎本大臣は部下に以下のように語り、若きエンジニアたちを激励しました。

 

『何故自分たちで試みないかのか、一、二回失敗しても自分たちで出来るようになれば国家に大利益をもたらす』

 

 若きエンジニアたちは憤激してチャレンジし、成功しました。以降、日本の海底ケーブルは総て日本人の手によって敷設されるようになりました。海底ケーブル敷設技術の純国産化は、その後の日本の貿易や国家安全保障に重要な役割を果たしました。

 

3.明治26年2月の殖民協会報告に収録された会長演説です。

 

 『本会に於いて殖民事業に於ける精密の調査を遂げ、官民一致を以て此の国家百年の計たる一大問題の成功を期し、以て所謂(いわゆる)国利民福を図るは実に我々会員諸君に向(むかい)て求むるにあらずして、将(は)た誰に向て求むる可(べし)や、然(しかり)りと雖(いえど)も我々は単に政府の補助を待(まっ)て、而後(じご)始めて運動する者ではありませぬ、・・・』

 

 榎本のこの発言から、殖民協会は国庫補助金が出たならこの事業を開始しようという方針では無く、国利民福を実現する企画である殖民事業を先ずは自分たちの力を集めて始めようという榎本の起業家精神が現れています。

 

4.明治27年4月7日発行の気象学会の雑誌「気象学集誌」に収録された榎本会頭の演説です。

 

『・・・研究の材料積みて山を為す此時に方り会員諸君一層奮励して学理の蘊奥(うんのう)を究め之を応用の方法を孜々(しし)怠るなくんば其国利民福を増進すること期して竣(ま)つべし是れ余が本会の為め只管(ひたすら)会員諸君に望む所・・・』

 

 国利民福の増進には、科学的研究、先端的研究の熱心な応用が必要だと榎本は気象学の研究者に訴えました。気象の研究は、特にクリミア戦争(1853-1856)から発達が顕著となりました。気象学は軍事上の重要な情報ですが、一方、遥か昔から農林水産業には不可欠な情報でした。榎本の訴えは、気象学の研究成果を人民の生活の幸福に役立たせることを忘れること無く、日々、仕事に取組んでくださいという内容でした。研究成果は社会生活の中で応用されなければ、研究そのものも社会の中にも新たな価値が生まれないという榎本の信条を示しています。

 

5.明治36年4月、大日本窯業協会第十回総会での榎本会頭の祝辞です。
(当初書き落としたため、この項を10月10日に追記した)

 

『・・・学士の所説を親く実業家に照介し従来阻隔せる両者の中間に立ち相提携して進路を開くを以て目的とせり此事たる固より一種の娯楽に出でしにあらず大は以て国家富強の基礎を開き小は以て各自の幸福を増進せしめんと欲するに外ならず然れども之を以て広く世人の嗜好を喚起して製造者に向て注意を與ふるには主として商業家に・・・』(大日本窯業協会雑誌、1903年 11 巻 130 号)

 榎本はこの前段で、「我が国の窯業界は古来実業家の経験にのみ一任して以て自ら足れりと為して敢えて学理に基きて研究するの必要なしと思想する者甚だ多し・・・」と国内の現状を紹介する一方、海外の情況から「官業であろうが私業であろうが皆学理の応用に努め、斬新の釉薬を発明し、・・・」と話しました。

 榎本は学理を応用することで実業が国利民福を増進すると会員に向かって語りかけました。特に榎本は研究を応用するという研究から実業家へ一方通行の協力関係では無く、「相提携して」という双方向の協力関係を訴えていました。研究者の純粋な好奇心からの発明もありますし、実業家が市場の情報を収集し分析したマーケティング情報を研究者に提供することから生み出される発明もあります。榎本はその辺を詳しく理解していました。そして、研究と実業との連携が国利民福増進への道を開くと確信していました。

 翌年の明治37年、森村市左衛門らは日本陶器合名会社を創立し、永遠に国利民福を図ることを誓いました。

 

6.明治40年1月、電気学会雑誌に収録された榎本会長の年頭訓話です。

 

『然れども国運の進歩は空前の巨艦を邦人の手に完成せるのこんにちに際して電気の諸機械は尚ほ海外の供給を仰くもの少なからざるは予の深く憾み(うらみ)とする処にして一に諸君の研鑽に竣(ま)たざるべからずは独り予が望蜀の言にあらざるべし 且つ夫れ欧米各国に比して我邦電気施設の方途は間接の国利に資する交通通信の設備に偏して直接の民福を図る諸般製造の応用に薄きの傾向あるは是亦予の憾み(うらみ)とする処にして・・・』

 

 榎本は、機械工学の応用は国内で巨艦を設計、製造できるようになったのに、電気工学の世界は相変わらずインフラ設備を輸入している様で、尚更、国民生活に利便を与える電気製品の製造は程遠い現状だと嘆いています。榎本は翌年、明治41年(1908)に薨去しました。その後、明治43年に日立によって鉱山向けの誘導電動機が国内で初めて製造されました。明治27年に芝浦製作所(後の東芝)が電灯付き直流電動機を応用した扇風機を開発しましたが、輸入品に勝てず、大正5年(1916)になってようやく庶民の手に入る低価格の芝浦扇風機を完成させ、販売を開始し、人気を博しました。ようやく、榎本の願いが実現し始めました。

 

 

・まとめ

 

 

 江戸時代の幕藩体制の中から誕生した諸藩(国)の国家スローガン「国益」思想は、日本が中央集権国家に移行後の明治16、7年頃から「国利民福」に入れ替わり始めました。世間の口が「国益」から「国利民福」へ移ろい行く中、榎本も「国利民福」を民間団体で訴えていました。

 

 明治24年10月に窯工会が結成され、翌25年6月に大日本窯業協会へ拡大されました。窯業の発展は鉄鋼業の発展に欠かせません。この年、榎本は自宅で鉄鋼事業実現のために、野呂景義(1854‐1923、近代製鉄技術確立功労者)、今泉嘉一郎(1867‐1941、日本鉄鋼技術史上の功労者、日本鋼管の共同創立者)、金子増耀(1861‐1938、製鉄製鋼界の先覚功労者)らを定期的に呼び、鉄鋼業実現のための議論を繰り返しました。当然、耐火物の議論も行われました。そして、榎本は官営八幡製鉄所建設を実現させました。その関係からか、榎本は明治33年から死去した翌年の明治42年まで間、大日本窯業協会の二代目、会頭でした。

 

 そして、明治37年*1、森山市左衛門*2や大倉孫兵衛*3らは日本陶器合名会社を創立しました。ノリタケブランドの誕生です。このとき、創立者らが連署して作った宣誓文を焼き付けた陶板は、「ノリタケの森」(名古屋市内)に現在も大切に保管され展示されています。その陶板には、「誓って、至誠事に当り、もって素志を貫徹し、永遠に国利民福を図ることを期す。」と記されています。
(「History of NORITAKE 日本陶器合名会の設立より引用」https://tableware.noritake.co.jp/f/about-noritake/history/04.html)

 

*1 明治36年 榎本大日本窯業協会の第十回総会での祝辞の中で「大は国家富強の基礎を開き小は以て各自の幸福を増進せしめん・・・」と話した
*2 1839-1919、江戸生、商家
*3 1843―1921、江戸生、書籍販売業、後に森山の義弟

 

 

 榎本自身は、サンクト・ペテルブルク駐在時代(明治7年-明治11年)から真剣に「国利民福」の増進に取組んできました。明治11年(明治13年とも)渋沢栄一は、岩崎弥太郎から国内事業のカルテルをもちかけられた際、事業は「国利民福」ですると反論しました。北里柴三郎は「予防衛生と国利民福」を目的にした研究成果の実践(実学)に邁進し、森山市左衛門は大正8年出版の著書『心の修養』の中で「私共は国利民福の四文字を守本尊とす」と言っています。

 

 明治時代に入って、かくも人々の心を捉え、突き動かした「国利民福」がどのように誕生したのかははっきりしませんが、「国利民福」の増進を目指し、日本国内では人々のために研究成果の応用が求められ、国際市場では「平和の戦」に勝とうとして真剣に戦われていたのでした。榎本はその最前線でリーダーシップを発揮した一人でした。

明治40年(1907)5月5日、工業化学会雑誌、榎本会長訓話

「・・・武の戦に勝てる我国は将来平和の戦に勝を制する途は元より一つならずと雖も経済の発達を図り国家の富源を開くより急なるはあらじ・・・」

 

 

【補足資料】

 

簡易年表-「国益」と「国利民福」と榎本武揚

 

江戸時代中期 諸藩(諸国)で「国益」思想による経済政策に取り組み始める。

吉田松陰(1830-1859、長州)、佐藤信淵(1769-1850、秋田)は富国強兵、中央集権専制国家、海外領土獲得(侵略)、貿易など唱える。

慶応4年3月14日(1868年4月6日) 五箇条の御誓文を公布

慶応4年(1868年3月15日) 五榜の掲示(禁止令を書いた高札、奥羽列藩同盟を除いた地域に設置)

明治2年 版籍奉還

明治4年 廃藩置県により日本は封建制国家から中央集権型統一国家へ、学制

明治5年(1872)4月 滋賀県の勧業社規則で投資対象を「国益民福を為すもの」とした。渋沢栄一は親戚友人を発起人にした製紙会社設立の政府への申請書に「国益」を書き入れた。
同11月 兵制(徴兵告諭)、 翌年1月徴兵令(国民皆兵)を公布

明治6年1873 地租改正、政変(征韓論対立により土肥が下野)、学制や徴兵令に対する一揆が大規模化した、秩禄奉還を求めた

明治7年1874 榎本武揚ペテルブルクへ向け出立、板垣退助『民撰議院設立建白書』を提出

明治8年1875 讒謗律(ざんぼうりつ)、新聞条例、政府は資金不足から秩禄奉還の法を廃止

明治9年3月 秩禄処分、廃刀令
同11月30日受付「人民出生戸籍編入ノ税ヲ収メ義倉ヲ設立スルノ議 (浅井成章) (国立公文書館)」JACAR (アジア歴史資料センター) Ref.A07061539600・・・この建議書は「国益民福」の大産を効果とした政策提案をしている。

明治10年 西南の役、山田方谷死去

明治11年 大久保利通暗殺、渋沢栄一と岩崎弥太郎が激論(明治13年とも)し「国利民福」を経営の目的と主張して席を立つ、榎本武揚ロシアから帰国参謀本部条例制定(兵政分離)

明治13年 集会条例、郵便汽船三菱会社に対抗し風帆船会社創立(1882年、東京風帆船会社へ改名)

明治14年 政変で大隈重信下野、国会開設の詔、松方デフレ政策が始まる、自由党・立憲改進党

明治16年 五榜の掲示を廃止、内務卿に就任した山縣有朋は自由民権派を弾圧

 

(民権運動が激化し、政府の弾圧が強まる)

 

明治16~17年 歌詞に「国利民福」「民力休養」を用いた演歌「ダイナマイトどん」が流行した

明治17年  9月 加波山事件*1が起きる

明治18年 内閣制度発足、榎本武揚は初代逓信大臣に就任、岩崎弥太郎死去、政府仲介により三井と三菱の海運業は日本郵船として統合

明治19年11月 山縣有朋内務大臣は福島県下の石炭運搬のための馬車鉄道布設認可の文書*2に「国利民福」を入れる

明治20年1887 大井憲太郎『自由略論』、竹越與三郎『政海之新潮』*3の中で「国利民福」を用いる、保安条例

明治22年1889 帝国憲法発布、この年以降建白書類に「国益」という文字が用いられなくなる

 

(政党政治の時代が始まる)

 

明治23年 第一回帝国議会、民党は「民力休養 政費節減」を訴えた

明治25年 愛花情史編『粋人遊びの友』で「国利民福」を取り上げた

明治26年 榎本は殖民協会での演説で「国利民福」を用いる

明治27年4月 榎本は気象学会での演説で「国利民福」を用いる、11月 金子堅太郎農商務次官が名古屋市陶磁業組合員への演説の中で、「平和ノ戦争ニテハ大ニ外国ニ敗レツツアリ・・・」と訴えた。(大日本窯業協会雑誌、1895年4巻42号)

明治28年 孫文は香港興中会章程の第三項目で興中会が行う事業は「利国益民」を必要条件とした

明治36年 榎本大日本窯業協会の第十回総会での祝辞の中で「大は国家富強の基礎を開き小は以て各自の幸福を増進せしめん・・・」と話した

明治37年 森山市左衛門や大倉孫兵衛らは日本陶器合名会社を創立し、永遠に国利民福を図ることを誓う

明治40年 榎本は電気学会で「直接の民福」を実現する応用が皆無であることを問題として会員に訴えた、また、工業化学会で「平和の戦」を訴えた。国防方針で国利民福が国家目標になる

明治41年10月27日(または26日) 榎本武揚、薨去

 


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