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Ⅳ.最終編 第二章 日清戦争までの榎本武揚-1(前)

2021.11.02 Tue

『太政官賞勲局 外国勲章受佩人名禄 明治十三年六月』

 

榎本武揚と国利民福 Ⅳ.最終編 第二章 日清戦争までの榎本武揚

 

 

・帰国した榎本武揚

 

 

 榎本は、明治11年10月21日(43歳)、ロシアから帰国しました。枢密院作成の榎本の履歴書*1 によると、帰国後11月24日にロシアから送られた勲章の佩用(はいよう)を許され、特命全権公使のまま翌年2月12日条約改正取調御用掛、9月10日外務省二等出仕、11月6日外務省大輔、11月18日に議定官*2になりました。

 そして、唐突にも12月2日に駐日イタリア公使から井上外務卿宛てに井上外務卿と共にイタリア国王から勲章授与を伝える手紙が届き、12月3日、贈与された勲章の佩用が許可されました。

*1  JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A06051167400、榎本武揚(国立公文書館)

*2 太政官賞勲局議定官(ぎじょうかん) 勲位、勲章など栄典の授与、はく奪を議論する。榎本が議定官に就任したときは、賞勲局は、三条実美総裁、大給恒(おぎゅうゆずる、三河、1839‐1910、元藩主、県知事、最終は伯爵)副総裁、議定官は榎本ら11名で構成されていた。職員録では、この時期の榎本の住所は、神田区今川小路二丁目十七番地、現在の西神田だった。

 

 

・イタリア蚕種商人と榎本武揚

 

 

 ペテルブルクに駐在中の明治10年1月1日の晩、イタリア大使館から食事に招かれたと、榎本は妻への手紙に書きました。イタリアは当時の日本にとって重要な輸出国でした。

 

 以下は、榎本とイタリアとの接点を具体的に紹介している論文、ベルテッリ・ジュリオ・アントニオ『イタリア商人ジャーコモ・ファルファラ(Giacomo Farfara)の未刊日誌 ―戊辰戦争時(1868-69)の北日本の旅より―』イタリア学会誌(66号)、2016からの抜粋、引用です。

 

 イタリアは1861年に成立した新しい王国でした。そして、1866年8月に日本と修好通商条約を結び、翌1867年に初代駐日イタリア公使*が着任しました。駐日イタリア公使たちの重要な使命は蚕種を求めて来日した商人たちの活動を擁護することでした。そして、日本に着任した駐日イタリア公使は信任状をイタリア外務省の指示通りに徳川幕府に提出していいものか、現場で思案していました。

* ヴィットリオ サリエ·ド.ラトゥール伯爵(Conte Vittorio Sallier De La Tour、1827-1894)

 

 ミラノで蚕種商人*として知られていたジャーコモ・ファルファラ(Giacomo Farfara)が、1866年からフランスの運送会社の職員として横浜にいました。翌年、蚕種商人としての活動を開始し、ファルファラは横浜81蕃地にあった「A・ファーブル・ベルネ& C.」商館の従業員として働きました。ファルファラは1880年代までミラノと日本を往復し、蚕種商人として活躍しました。

* 蚕種 蚕の卵をさす産業用語である。蚕の卵が生みつけられた和紙を蚕卵紙という。

 

 

 ファルファラは、フランス下士官の移動、武器と弾薬の送り先、ブリュネ、榎本、ファーブルらの会見内容、戦争の行方などの情報と分析を、公使夫人*1 へイタリア語の手紙にして提供しました。当時日本国内でイタリア語を理解できる人材は皆無に等しいため暗号の代わりになっただろうと考えられています。ファルファラは日本国内でインテリジェンスの仕事をしていました。公使夫人は、明治2年(1869年)5月5日にイタリア公使がイタリアの蚕種商人らと上州への養蚕地域視察旅行*2に同行するなど、日本国内では積極的に活動しました。

*1 マティルド夫人、Contessa Mathilde Sallier de La Tour (1838-1911)
  『マティルド夫人(初代イタリア公使夫人)の日本内地紀行
https://mirai.kinokuniya.co.jp/catalog/the-travel-journals-of-mathilde-contessa-sallier-de-la-tour/


*2 この項末の引用図を参照。

 

 

 イタリア商人はイタリア政府が日本と修好通商条約を締結する以前の1863年には日本で商業活動(密輸)を開始していました。1850年代のヨーロッパで「微粒子病」*2と呼ばれる蚕の病気が猛威を振るったため、イタリアは遠方から無病で良質の蚕種(さんしゅまたはさんたねと言い、蚕の卵を指す)を買い占める必要がありました。そのため、イタリアから日本へ蚕種を大量に求めて商人が来日しました。さらに、イタリアの伝統的な産業、絹産業は1865年、北イタリアの生産地で手痛い減産に追い込まれました。原因は中国産と日本産の絹がヨーロッパに流入したためでした。

 

 すでに日本産の蚕種が良質であることを確認していたイタリア政府は、急ぎ日本との修好通商条約を締結する決定をし、交渉のため海軍中佐アルミニヨン(V.F.Arminjon)を日本に派遣しました。1865年12月1日にアルミニヨン中佐を乗せた軍艦はナポリを出帆しました。

 

 アルミニヨンは列強に遅れて日本との条約交渉を始めることに大きなメリットがあると考えていました。イタリアがもっと早く日本に到着していたら列強と共同して日本に対し軍事行動を起こさなければならなかったのです。「正義を無視して日本に戦を挑み、その後で直ちに修好条約を要求するなどというのは、甚だみにくい行動」となったに違いない、そして、「イタリア人は日本人から激しい恨みを買うことになり、所期の目的と全く正反対の事態となっただろう」と考えていました。*3

 

*1  深町浩祥『明治初期における蚕種輸出記録(1)』跡見学園女子大学マネジメント学部紀要 第 29 号、2020 年 1 月 25 日
(「明治 初期、良質な蚕種を作りヨーロッパに輸出してその名を世界に知らしめたのは上野国佐位郡島村」、渋沢栄一記念館から数百メートルの地域)

*2  微粒子病 微胞子虫による蚕の伝染病。19 世紀前半まで蚕糸業の中心は、イタリア、フランスであったが、1840‒50 年代頃から、 イタリア、フランス、さらに他のヨーロッパ諸国において「微粒子病」(微胞子虫による蚕の伝染 病)という蚕の病気が蔓延し始めた。(参照、上記論文)

*3 日伊協会=編『幕末・明治期における日伊交流』日本放送出版協会、昭和59年

 

 

 榎本はヨーロッパでの微粒子病の蔓延と良質な蚕種を必要としている状況やヨーロッパに日本や中国の絹製品が流入していたことがヨーロッパの絹産業に与えた影響を1862年から67年までオランダに留学していたので知っていたはずです。

 

 ファルファラが残した『日本北部旅行日誌』は、横浜での1868年10月29日に始まり翌年1869年1月15日の箱館で終わっています。10月31日にファルファラは英国籍の帆船の商船に盛岡藩向け武器弾薬を積み、盛岡藩の役人や宮古へ赴く日本人乗客、さらにはブリュネに合流を目指す元フランス軍事顧問団員3名を乗せ、宮古湾に向かいました。ファルファラは、宮古に到着後、この三人にブリュネから指令が来る迄の間、住居を用意する約束をしていました。

 

 商船は金華山あたりから暴風に遭遇し、なんとかして宮古あたりに辿り着くと台風に遭遇し、台風の通過後の11月12日午後5時に宮古付近の鍬ケ崎村に停泊しました。このとき、先に到着していた榎本艦隊の小さい軍艦の艦長から榎本艦隊はまだ仙台湾にいると教えられました。

 

 そして、11月26日に榎本艦隊の数隻が宮古に到着し、翌27日に旗艦「開陽」が宮古湾に投錨しました。「開陽」を下船したブリュネは早速ファルファラを訪問し、戊辰戦争の展開に関し最新情報を報告しました。

 

 ブリュネからファルファラに会いに行き、戦況を報告するという様子から、ファルファラは単なる諜報員ではないようです。ファルファラやファルファラが所属するフランス人の商館は、ブリュネ達へ資金を提供していたのかもしれません。

 ところで、「開陽」の機関長だった小杉雅之進が書き残した日記、『麥叢録 (ばくそうろく) 』では、榎本艦隊は仙台で充分な石炭を入手できなかったので、代用燃料の薪を積みいれるため、明治元年9月13日に宮古港に立ち寄ったと記されています。西暦では、1868年10月28日です。綱淵謙錠『航』新潮社では、前日、他艦は出航し、「開陽」は一日遅れて明治元年9月13日に折ノ浜を出航し、翌14日に宮古湾に寄港したと書かれています。寄港日は西暦で10月29日です。

* 橋本進『咸臨丸還る』中央公論社に収録され、解説されている。原本は子孫の小杉伸一氏より東京農業大学へ寄贈された。

 

 

 ファルファラの『日本北部旅行日誌』に書かれた宮古での日記の日付は一か月近くずれていました。論文『イタリア商人ジャーコモ・ファルファラ(Giacomo Farfara)の未刊日誌』の第38の注では、宮古付近でのブリュネのスケッチに書かれた日付を提示し日記の日付を確認しています。何故ずれているのでしょうか。

 

 ブリュネはファルファラを「開陽」に誘い、ファルファラは「開陽」に乗船しました。ブリュネから「開陽」の士官と榎本提督に紹介され、席に着くと、リキュール、菓子、シガーが振舞われました。次に、榎本はファルファラに榎本の政治的事情、計画と希望を説明しました。その時、新政府に提出した彼らの嘆願書の訳文が渡され、内容が解説されました。ファルファラはこの扱いに非常に驚きました。

 

 ブリュネからの情報によると考えられますが、榎本は、ファルファラは単なる一商人、諜報員だとは考えていなかったのです。榎本には、榎本の方針をファルファラに伝えることで諸外国公使らの支持を新政府側から榎本側へ傾かせる一助となるのではという期待がありました。

 

 ファルファラは榎本から新政府へ提出した嘆願書の内容と方針を知りました。そこには次の三点が記されていました。

 

1、領地を70万石にまで減らされた旧幕臣が生活に困るので蝦夷地を開拓し、生計を立てる

2、開拓しながらロシアからの侵略の脅威へ備える

3、この願いが新政府に却下されたら一戦を辞さない

 

 ファルファラはロシア問題の解決を促進するという嘆願書の利点を、各外国公使にしっかり強調できれば、諸外国公使から支持される可能性があるだろうと榎本に言いました。

 

 榎本はその言葉を待っていたと内心思ったはずです。榎本の嘆願書には、失業した旧徳川幕臣が蝦夷を開拓して生計を立てながら、ロシアからの南下への防御をするという「国利民福」案が書かれていました。榎本は蝦夷嶋開発の利権をフランスと共に独占しようとは考えていなかったのです。

 

 榎本との会議が終了すると、ファルファラはブリュネ達と5時間も親しく過ごしました。その後、ファルファラの乗った船は榎本達(明治元年11月11日(1868年12月24日)着、「麥叢録」)に遅れて、1868年12月26日に箱館港に到着しました。ファルファラは到着するとすぐ、「我々の商売」を口にするファーブルを訪れ、夜更けまで情報や意見を交換しました。ファーブルからファルファラに現地で得られた情報も提供されました。

 

 翌日の27日に再び、ファルファラは、ブリュネと長時間話をしました。そして、ファルファラはブリュネに意見しました。

(尚、「開陽」は舵の修繕が完了しないまま、明治元年11月14日に榎本を乗せて松前経由で江刺へ向かい、同年11月15日(1868年12月28日)に江刺で座礁後、沈没しました。)

 

1、諸外国公使らの快い言葉を信用し過ぎてはいけない、むしろ全員疑うべきだ

2、箱館の住民は喜んで榎本軍の支配下に入っているとは思えない、榎本軍のヨーロッパの風習の猿真似は歓迎されないだろう

3、現状では榎本軍側の軍勢が不足している、諸外国が新政府を支持しているので有利な立場を背景に新政府軍の軍事行動は成功するだろう

 

 ファルファラはイタリア公使夫人宛の手紙に、箱館の状況を説明した後、箱館に停泊しているフランスの軍艦の艦長がブリュネたちやファルファラ達とコンタクトすることを禁じていることなどから、フランス公使館が徳川の味方をしているようには思えない、ブリュネの現状判断と今後の見通しは甘いと結論を書きました。

 

 1868年8月に約40名のイタリア人蚕種商人が横浜市場よりさらに安価な産卵台紙を買い占めに新潟へ赴きました。そのためにもイタリア公使は新潟開港実現に尽力し、商人らの新潟訪問にイタリア公使館の書記官を同行させることで、イタリア公使館の公式な訪問に位置付けました。パークス公使の英国公使館はあらゆる手段でこの訪問を妨害しましたが、イタリア公使館の書記と商人らの旅行は実行されました。

* 明治元年11月19日(1869年1月1日)開港

 

 

 しかし、新潟到着が遅れたので安価な台紙はすでに無く、高価な台紙が残っているのみだったので、この買付の旅行は失敗でした。もし、武器や軍需品を持参していたら、安い産卵台紙を多量に入手できることが現地に行って分かりました。イタリア王国は中立を宣言しているものの、イタリア商人は商売を推し進めようとすると、難しい選択に迫られました。

 

 新潟でイタリア商人らは武器商人エドワード・スネルと接点をもつことになりました。スネルは米沢藩に大量の武器弾薬を売り、その代金として貴重な産卵台紙を得て、それらをイタリア商人に売りつけ、現金を手にすると、上海へ出向き、武器や軍需品を仕入れ、奥羽越列藩同盟諸藩に売りつけました。

エドワルト・スネル(生没年不詳)、プロイセン出身の商人。インドネシアで育ち、開港後、横浜に来て兄弟で商会を営んだ。奥羽越列藩同盟諸国と武器、軍需品の取引をした。後にエドワルド・スネルは新潟で商会を設立して商売を継続した。長岡はじめ東北諸藩に武器、弾薬を上海から調達して供給し、新潟港の軍港化にも協力した。奥羽越列藩同盟の軍事顧問にもなった。日本名は平松武兵。(コトバンクより)

 

 

 澁澤秀雄『澁澤榮一』時事通信によると、渋沢栄一は、徳川昭武とともにフランスから帰国途上、上海でスネルと遭遇しました。(明治元年10月の終わりごろか、西暦では1868年12月中旬ごろ)

 

『船が香港に寄港したとき、榮一は会津落城と榎本武揚が幕府の軍艦をひきいて函館にたてこもったことを知った。そして上海に着いたときは、思いがけなく知人長野慶次郎の訪問を受けた。彼は会津藩の命でスネールというドイツ人といっしょに、上海へ銃を買いに来たのである。』

長野桂次郎のこと。1843‐1917、幕府の通訳などを務めた。上海から帰国後、立石斧次郎から改名。
参照元、立石斧次郎教之 - 一般社団法人 万延元年遣米使節子孫の会
https://www.1860kenbei-shisetsu.org/history/register/profile-64/

 

 

 長野は栄一に、徳川慶喜は謹慎中だが、幕府の艦隊は箱館に結集しているので、民部公使(徳川昭武)が箱館へ来てくれるなら、幕軍は総大将に弟君を迎えて奮い立ち、武器、弾薬はスネールが十分調達してくれると言いました。

 

『榮一はキッパリ拒絶した。今となっては無名の軍にすぎないし、昭武を戦争の渦中に巻きこむことは、慶喜の苦衷をふみにじるだけだからだった。長野とスネールもあきらめて帰った。』

(渋沢の『青淵百話』の「帰朝と形勢の一変」の項に、この経緯がさらに詳しく書かれています。さらに帰朝後、渋沢は箱館にいる渋沢喜平に意見書を送りました。)

 

 新潟港に官軍が上陸し占領すると、市街地にあった複数の倉庫にあったイタリア人商人名義の産卵台紙や雑品は官軍に没収されました。そこでイタリア公使が新政府に損害賠償を請求しました。新政府側の調査では「雑品」はスネル名義の武器でした。スネルも損害賠償を請求し、それらは認められました。

 

 「1868年2月18日にイタリア公使は、在日イタリア臣民が参戦または官軍や旧幕府軍に武器を売買するなどの間接的参戦行為を行った場合、イタリア公使館による保護を求める権利、日伊修好通商条約によってイタリア臣民へ与えられる特権を失うと警告」を公開しました。

 

 しかし、「イタリア商人が戊辰戦争時代の日本で行われた兵器の密売に巻き込まれることは初めてではなく、彼らは新政府軍ではなく、旧幕府軍とその味方へ協力する傾向があったことも注目すべき点」でした。

 

 この点については、ブリュネと箱館で合流しようとしていたフランス士官二名は、ブリュネに力を貸そうとしていたスイスの貿易商から商船を貸与されて江戸を出発し、津軽で宿泊したところ、横浜で蝦夷へ向かったフランス人二人の逮捕命令がでたと、アメリカ艦の士官が教えてくれたので、夜間にアメリカ艦に乗り移り、箱館まで送ってもらった事例もあります。

 

 各国局外中立宣言をするものの、旧幕府軍側に協力する外国人が多かったと考えることが出来ます。そして、このフランス士官は官軍に投降後、お白州での軍法会議で、「われわれフランス人は日本を食いものにすることばかりを考えているイギリス人とは反対で、日本の利益と心中するつもりで行動している。イギリスが巨額の資金をいとも容易に貸し付けるのも、後に負債がかなりの高額になるのをみこし、日本政府に対し高圧的に出て、自分の都合のよい条件を押しつけようとする魂胆がある。」と強調しました。

* M・ド・モージュ他『フランス人の幕末維新』有隣新書53、平成8年

 

 ファルファラからの情報分析を公使夫人経由で受取ったイタリア公使は、明治元年12月23日(1869年2月4日)、明治天皇に信任状を提出しました。

 

 

『近世上州の蚕糸・織物』より引用
(赤いドレスをまとい馬上にいる婦人は、イタリア公使夫人と考えられる)
https://www.archives.pref.gunma.jp/storage/app/media/data/exhibition/moyooshi-26-1/moyooshi-tenji-26-2-panf.pdf

 

(続く)

 

冒頭の写真の引用元:

JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A09054310800、職員録・明治十三年六月・外国勲章佩人名録(賞勲局)(国立公文書館)


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