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榎本武揚と国利民福 最終編二章―3(2) 民間事業(4)

2023.03.12 Sun

図1 榎本武揚が企画した南方経営構想

 

 榎本武揚と国利民福 最終編二章―3(2) 民間事業(4)

 

【横尾東作の恒信社】

 

 横尾は明治23年10月、榎本の個人的援助を受け、「株式会社恒信会社」を設立し、恒信社の帆船はサイパン・グアム・パラオ・トラック・ポナペを巡航しました。『横尾は榎本と殆ど毎日の如く会見し、榎本も亦恒信社の重役会に度々出席し或る時は向島の自邸に会議を招集したりしているが、同社の株主名義については自己の政治的地位を憚ってか、令兄武與の名義』*¹にしていました。榎本は横尾の南洋経営に力を入れていましたが、恒信社の営利が少なく、横尾は明治26年12月に解散し、個人事業に切り替え、「横尾興信社」*²を設立し、南洋諸島への移住推進と貿易を継続しました。南洋諸島を行き来する商船が二度も難破の憂き目に遭い、明治30年、横尾は事業継続のために自宅家屋を売却して機帆船、松阪丸(百九十噸)を購入しましたが、経営難は続き、横尾は榎本らと連名で八千余円に及ぶ負債を負うという危機的状況に陥っていました。

竹下源之助『横尾東作と南方先覚志士』p.23
河東田経清『横尾東作翁傅』横尾帝力、1968、p.92では、「横浜恒信社」としている。

 

 横尾は足尾鉱毒事件が報じられるようになると、被害に遭っている人々に健康的な南洋へ移住してもらう運動を起こしました。明治36年7月、恒信社への協力を求めて元日銀総裁の富田鉄之助宅を訪ね、対談中に倒れ、翌日急逝しました。

 

 横尾東作の死後、1904(明治37)年、横尾恒信社は改組して「株式会社日本恒信社」 となり、嗣子の横尾愛作によって引き続き経営されました。日独戦争の結果、1914(大正3)年に日本海軍がパラオを占領すると、愛作ら日本人は歓喜して日本海軍を迎えました。海軍がパラオ本島に達すると、『榎本武揚所有地』の標木が建っていた土地があったと伝えられました。『恒信社の私有地プレシャン村であり、即ち横尾の南洋経営の遺産の一つ』でした。その後、恒信社は南洋貿易株式会社に吸収合併され、この遺産は南洋貿易株式会社*所有地として引き継がれました。榎本の元、横尾とともに活動した多くの人々、横尾が榎本に紹介した人々は、南洋で活動を続け榎本の意にこたえて成果を出しました。横尾の南洋経営の先見性、南洋事業開発への敢闘精神と成果は今でも高く評価されています。

(引用元 竹下源之助『横尾東作と南方先覚志士』p.25-28)

 

*南洋貿易株式会社のホームページにアクセスすると、榎本武揚を『南進一路という社是を定めたファウンダー』として紹介している。URL: https://www.nbk.co.jp/history

(注)引用元:南洋経済研究所編『南洋資料 人物誌・年表』(アジア学選書)大空社、2004、p.42-43
南洋貿易株式会社の前身である、南洋貿易日置合資会社が、和歌山県の日置出身者によって1893年に創立され、1906年頃村山商会と合併し株式組織にし、南洋貿易株式会社に改称した。以後、事業を拡大し、1942年に南洋興発株式会社と合併し、現在に至る。

 

参考:
・入江寅次『明治南進史稿』井田書店、昭和18年、p.36-37、https://dl.ndl.go.jp/pid/1276414/1/1
・『榎本武揚と国利民福』Ⅰ.南方経営  http://www.johoyatai.com/2495
・『榎本武揚と国利民福』Ⅱ.榎本武揚と産業技術立国(後編) http://www.johoyatai.com/2788
・河東田経清『横尾東作翁傅』(横尾帝力、1968、p.96-97)から榎本の南洋の所有地に関する箇所を引用し、紹介します。

『・・・日獨開戦となり、我が海軍が、獨逸領に属する南洋諸島を占領するに及んで、端なく此事が發見された。それは外でもない曩[さき]に我が海軍の占領したる南洋の島嶼中には嘗て榎本武揚子爵が南洋貿易を奨励した比[ころ]、支那鞄一個と交換した數千坪の土地あり、同所は珍奇なる木材頗る豊富なるも、伐採することも出来ず、其儘にしてあるとの言傳へはあつたが、果して何れの島であるか、又果してそれが事実であるか否やも十分知られずに居たのであるが、我が海軍に於て、占領後、島内を巡察して居るうち、或る一島に『大日本帝國子爵榎本家所有』と記されたる古き標木を發見したので、彌ゝ[いよいよ]それが確められた、右に付[原典は縦書き]、現子爵(武憲)の語る所を聞くに、『亡父武揚が嘗て逓信大臣たりし時、明治十九年より同二十二年の比[ころ]、東洋のコロンブスとまでいはれた、仙臺の横尾東作君等は、帆走船に乗って、南洋深檢に行ったことがある、其後間もなく東京の實業家連と談し合って、恆信社と云ふ南洋貿易の會社を組織して、貿易を始めた、而してカロリン群島のヤップ及びパラオオ[パラオ]兩島に支店を設け、纔[わずか]に百四五十噸[トン]位の帆走船にブランデーや赤綿布のやうなものを積載して行き、コブラ(椰子の實)だの釦になる貝類なぞと交易して来たものだ、処が後で人の話には、百町歩*とか二百町歩とか、土地の所有権を得て、椰子栽培を計畫したと云ふことを聞いて居る、今回發見された土地は、多分其土地であろうと思ふ云々』と云ふやうなこともある。

今でこそヤルー島などには、立派な獨逸の政廳[せいちょう]もあり、其他諸般の設備孰れも[いずれも]驚くべき程に宏壮なるものがあつて、それが新たに我が海軍に占領されたのであるが、指を屈すれば今より三十年前、横尾一行が同島を訪問した比[ころ]には、無論孰れ[いずれ]の國の領土でもなかったので、之を我が版圖に編入することは、何等造作もなかったのである斯る[かかる]天奥の新領地があるのに、政府當局の眼孔が小さかったのか、或は我が國勢が未だ此に至らなかったのか、翁が廔ゝ[しばしば]当路に[しばしば要人に]建言したるに関はらず、遂に棄てゝ[すてて]顧みなかったのは如何にも残念と云はねばならぬ、而してそれと同時に翁の活眼達識を稱揚[しょうよう、ほめたたえる]せざるを得ない次第である。』

*1町歩は、10反、3000坪、9900平方メートル

 

 

【榎本とオールコックの北ボルネオ買収劇】

 

 

 スールー王国の諸権利はブルネイと共に、オーストリアの在香港領事オーフェルベック男爵とアルフレッド・デントから、オールコックらが1881年(明治14)3月に設立した英領北ボルネオ暫定有限会社を介して、同年11月に英国王から勅許された英領北ボルネオ会社に全て委譲されました。横尾が探討船を出す計画をしていた時期は、スールーの陸上部と沿岸9マイル*のエリアは英国の殖民地になっていました。

*1マイルは約1.6km

 

 榎本は、明治9年のスペイン領の南洋群島購入献策に続き、明治11年に青木周蔵と共同で北ボルネオをオーストリアの貴族(在香港領事オーフェルベック男爵)から租借権を買い取り、殖民と華族達が出資した企業が地下資源を採掘し営業をする提案をしました。日本政府内部は関心が無いと結論づけました。
(参照:『榎本武揚と国利民福 Ⅰ. 南方経営』)

 

 しかし、初代駐日英国公使、オールコック (Sir Rutherford Alcock  KCB 、 1809.5 – 1897.11)は、北ボルネオの植民地化に重大な関心を持っていました。『榎本武揚と国利民福 Ⅰ. 南方経営』(情報屋台)で触れましたが、伊藤博文が日本はそのような領土はいらないと言い切った背後に、オールコックがいたのではないかと疑わせる一致でした。

 

 オールコックは、1876年(明治9年)に王立地理学協会の会長に就任し、その後、20年間、委員の地位にいました。オールコックは様々な名誉ある業績を上げましたが、最も注目される業績は、「北ボルネオ会社」(North Borneo Chartered Company)の設立に参画したことでした。

 

『かれは当時未開の地ボルネオの戦略的重要性というものにいちはやく目をつけて、北ボルネオの経営をくわだて同会社を設立し、みずからその会長を買ってでて、前後十年にわたってその職にあった。

 この北ボルネオ会社は、1881年[明治14年]11月に政府[英国女王]より特許状[勅許状]をえて、ただたんに貿易に従事するだけではなく、行政権をはじめ土地所有権・鉱山採掘権・耕作権から課税権におよぶ、きわめて大きな権限を有して、名目上は保護領である北ボルネオを実質的に支配するのである。これはイギリスの植民地経営史上では非常に注目されるできごとといわねばならない。・・・』

(オールコック著、山口光朔訳『大君の都 下』岩波文庫424-3、1962、P.417-418)

 

 オールコックらによって設立された「英領北ボルネオ会社」は、北ボルネオのサルタン達と年金を条件に領土を委譲(租借)されました。英領北ボルネオ会社は着々と開発を進め、1896年(明治29)には鉄道が開業します。北ボルネオの1877年12月29日の諸権利の譲渡の年金額合計は17,000ドル*¹です。榎本達は100万ドル*²で買収するつもりでした。軍事力を行使して占領するよりははるかにお安い買い物です。榎本は、明治新政府が作り出した、武士の反乱、西南戦争、一揆で荒れる国内の閉塞的な状況をサンクトペテルブルクから冷ややかな目で見ていました。パラオ島に用意された『榎本武揚子爵の土地』とは、内地の政治による困窮者たちの生計のために用意された土地でした。

前掲、鈴木論文
前掲、高村論文、p.98

【補足】坂根義久訳『青木周蔵自伝』「第十一回 ボルネオ買収工作」平凡社、1970、pp.88-95
概要:青木周蔵は、ドイツ(プロイセン)に留学していた時期に、英国の「コロニアル・ポリチック」(colonial politic, kolonial politik)*に関心をもち、いろいろ調べた。日本にも殖民できる土地が残っていないかさんざん調べたら、北ボルネオが見つかった。元来西隣は「ブルニー」(Brunei、ブルネイ)国のスルタンの領地だったが、数年前に英国人のJames Brooksが君主権と共に其の地を買収し、現在はオーストリアの貴族、「バロン・フォン・ヲーベリック」(Baron Von Overbeck)が完全に領有している。ヲーベリック男爵はその土地を売却するつもりがあり、現在、英国人と交渉中だが売買契約を締結するまでには至っていないと言うので、日本が買収に乗り出すと英国やその他の欧州の国から抗議を受ける恐れはないかと質問すると、ヲーベリック男爵は、かつてオランダが買収するとなった場合の英国の意向を質問したら、英国は「異議なし」という回答だった。青木は、ヲーベリック男爵から日本が買い取る場合は、アジア某国が買収を希望していることを英国政府に話して、英国政府の意見を聞いてみるという回答を得た。青木は期限を切って交渉することを申し入れ、了解された。青木は帰国し、政府に建議し、拓殖移民に熱心な榎本に計画を説明し、諸手を挙げて賛同してもらえたので、二人で井上外務卿を訪ね、計画を説明すると、独断専決できないので、考える時間が欲しいと良い、日数が過ぎた。本件推進のため岩倉具視右大臣に面会し、英国の「コロニアル・ポリチック」を説明し、人口問題を控えた日本もすぐにでも拓地殖民策を講ずるべし、そのためには本件を推進すべしと秘密に意見をした。その後、青木は、井上外務卿に決断を求めたところ、一人で決められないので伊藤博文との協議が必要だと言うので、青木と榎本は伊藤を訪ねて本件を説明したところ、伊藤は、『日本は此の如き領地を海外に所有するの必要なし。且、縦(よ)し本地域を買収せんとするも、英国は必ず異議を挿んで之を防ぐべし。斯かる危険[リスキー]の計画を企図し他国と衝突を招くが如きは、最も避くべきの事たるに由り、予は徹頭徹尾賛成するに能はず。』と答えた。青木はその点は事前に手を打ってあると詳しく伊藤に説明したが、伊藤は尚も半信半疑のままだった。井上の検討は本件当初より数十日経過し、大魚を逸することになった。1888(明治21)年に、英国は「北ボルネオ会社」を組織し、北ボルネオを買収し、政府保護のもと、拓殖移民事業を推進し、北ボルネオは発展しつづけている。明治27年2月1日付け、伊藤宛井上書簡には、ボルネオ買収に反対する井上に対し、榎本らがボルネオ買収の工作を続けていることが書かれていた。井上らから榎本らの計画は投機的だと見られていた。

(青木と榎本が国内で北ボルネオ買収運動をした時期は、明治12年8月から翌年5月と考えられる)

*参考: 
1. ”Colonial Policy, British”  https://www.encyclopedia.com/history/dictionaries-thesauruses-pictures-and-press-releases/colonial-policy-british
2. 早瀬晋三『3.海域東南アジア東部:第4巻 東南アジア近世国家群の展開』岩波書店、2001、pp.98-101

 

【メキシコのチアパスを目指す】

 

 榎本は殖民協会の設立に先立って、メキシコへの殖民準備のため、西班牙学協会(スペイン学協会)を設立し、明治26(1893)年2月4日に東京ホテルで初会会合を開催しました。初代会長に榎本が就任しました。メキシコを調査した曲木如長、荒川重秀、榎本龍吉、森尾茂助ら十数名と高等商業学校、語学学科教師ビンターが出席し一時間半、研究をしました。2月5日、柴四朗らが殖民協会の仮規則を作成し、仮幹事らが選任されました。そして、3月11日に殖民協会の発会式が開催されました。*¹

 同年4月15日の『殖民協会報告』に収録された、殖民協会創立式(発会式)での榎本会長演説では、南洋諸島に続き、今度はメキシコ殖民を提案します。その案は、もう殖民の行き先はメキシコしか残されていないという消去法によるアイデアでは無かったのです。

 

図2 榎本殖民団の入植地タパチュラ

 

 話しは遡ること、1500年の初めの頃、コロンブスがパナマに投錨し、アジアのインドに到着したと信じて帰国して後、スペインからパナマに赴任したバルボア総督は、先住民から反対側に大海があると教えられ、1513年9月、パナマ地峡を分解した帆船を運びながら横断し、太平洋側に到達しました。パナマ運河建設の夢の始まりでした。続いて、スペインのメキシコ征服後、1524年、コルテスはスペインのカルロス5世に中米地域に運河を建設することを提案しました。史上初の提案された地峡運河は、メキシコのテワンテペク地峡でした。その後の調査でニカラグア・ルートやパナマ・ルートなどが候補地に挙がりました。19世紀初頭、フンボルトは5年間中南米の現地調査をし、30巻にもなる調査報告本を発刊しました。1820年代以降、探検家と資本家が利権を求めて、中南米諸国との接触が活発になりました。まず、1855年1月にパナマ地峡に沿った鉄道が完成しました。1880年にパナマ運河建設のための鍬入れ式が行われましたが、難工事となり、途中で工事が放棄され、その後、米国*²の手で工事が再開され、10年間を費やした工事の末、1914年に開通しました。(出典:国本伊代編集『パナマを知るための70章』【第2版】、明石書店、2018年1月)

 

 榎本会長は演説の中で中央アメリカでの地峡運河や鉄道の建設状況を説明しながら、メキシコ最狭部に建設が予定されたテワンテペク鉄道*³を取り上げました。榎本が、前年、メキシコへ派遣した現地調査員の報告書に目を通すと、テワンテペク鉄道は6,7年もすれば完成するだろうという見通しが立ったと述べ、近く、その報告書*⁴を殖民協会へ提出すると語りました。チアパス州は、メキシコ最狭部に隣接する州です。チアパスに榎本達は、殖民団を送り込むことにしました。

 メキシコのチアパスの地の利を活かしてチアパスで生産されたコーヒーや日本から送られた商品を中継し、チリ、アルゼンチン、ブラジルへの輸出ルートを構築する意図が榎本にありました。榎本の構想は、単に殖民して、生活するだけのアイデアでは無く、輸出先も検討された事業計画でした。明治30(1897)年3月24日、榎本メキシコ殖民団36名が、メキシコのチアパスを目指して出発し、1名が船内で死亡し、5月10日にメキシコのサン・ベニート港(現在のチアパス州プエルト・マデロ)に35名が上陸し、南東方向、約28km内陸のタパチュラに入植しました。

 

(榎本のメキシコ殖民団に関する書籍は多数あるため、本稿では取り上げず、企画だけを紹介しました。)

 

参考および引用元:

中山昇一『試論 榎本武揚の人物像を探る』横浜黒船研究会講演資料、2019.5.12、p.10
*²竹田いさみ『海の地政図』中公新書2566、2022、pp.87-100
*³テワンテペク鉄道は、1894(明治27)年に線路が完成したが、問題が多数起き、1907年にオープンした。線路長は、カンペチェ湾のコアツァコアルコスと太平洋岸サリナ・クルス間の308km。1914年のパナマ運河開通により、鉄道価値が減少した。([高木秀樹]コトバンクから引用)

・国本伊代編集『パナマを知るための70章』【第2版】、明石書店、2018年1月

・在メキシコ日本国大使館『榎本殖民団メキシコ移住125周年』2022年4月21日
 https://www.mx.emb-japan.go.jp/itpr_ja/11_000001_00889.html#header

・在メキシコ日本国大使館『メキシコ合衆国チアパス州タパチュラ市による姉妹都市提携の希望』2012
 https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/local/pdfs/mexico1211.pdf

*⁴1892年に行われた、森尾茂助、恒屋盛服、榎本龍吉(兄、榎本武與の次男)、高野周省、藤田敏郎らからなるメキシコ調査団による移住調査と通商貿易調査に関する報告書。

 

【補足-ブラジル移民への先行調査】

 榎本は、外務大臣時代に移民課を設置し、殖民政策を推進した。外務省通商局の根本正*は榎本の強い影響を受け、殖民運動に熱心だった。殖民協会の幹事に就任している。

『根本は当時最も熱心な移植民運動家の一人であって、榎本子の殖民協会の中堅であり、また同子らの対メキシコ殖民地計画についても、重要な役割を演じていたのである。』根本は、中南米や南米へ移民と通商の可能性に関し調査に出張し、途中、榎本や殖民協会の人々に手紙を出している。根本がサンパウロから発信した榎本への書簡には、『サンパウロ州は日本移民に対し好意を有し居候、・・・』と記している。『根本はサンパウロの大平原を観、同州々民の日本移民待望の実情に接し、真にこれ邦人永住の天地であり、こゝに勤勉不倦[ふけん、いやにならない]の多数の同胞を送ることは、「人類を救う美事」だと思った。日本移植民勃発期に於ける一先達の感動である。』

*根本正(ねもとしょう、1851-1933)、水戸藩士、外務省、政治家。紹介動画 https://www.youtube.com/watch?v=Fc1tVFLDipg

出典、入江寅次『邦人海外発展史(下)』明治百年史叢書、原書房、1981、pp.7-12

参考:
・外務省『根本正の中米諸国出張(1894)』https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/j_latin_2005/2-2.html
1894年、外務省通商局の根本は、榎本の強い影響を受け、『移民地探索とニカラグア運河調査のため、ニカラグアとグアテマラに出張した。』『7月16日に横浜を出発した根本は、アメリカを経由してブラジルに渡り、リオデジャネイロなどを訪問したのち、10月27日より翌1895年1月16日まで、ニカラグア、グアテマラ、西インド「ゴァデロプ」(現在のフランス領グアドループ島)を訪問し、調査を行った。』

・外務省『「「伯剌西爾」(ブラジル)との出会い」』https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/j_brazil/01.html
『1893年(明治26年)、殖民協会会員でもあった外務省通商局の根本正(ねもと・しょう)はメキシコに赴き、同国の地質・気候・国情などにつき調査しました。根本はさらに翌1894年(明治27年)7月、ブラジル・ニカラグア・グアテマラの調査にも向かいました。実に234日をかけた調査の内容は、その報告書である「南米伯剌西爾[ブラジル]、中米尼加拉瓦[ニカラグア]、瓦地馬拉[グアテマラ]、西印度ゴアデロプ*探検報告」に詳細に記されています。この報告書において根本は、ブラジルのサンパウロ州が「土地豊饒気候温和」であり、「法律正明ニシテ山野ヲ旅行スルニモ短銃ノ携帯ヲ要セズ」と評し、同地が移民に適していることを述べました。』

*Guadeloupe、カリブ海南部に位置するグアドループ群島。現在、フランスの海外県。

 

・「南進」その後

 

 明治40年に策定された陸海軍の『帝国国防方針』の基本方針第一項の概略を以下に紹介します。

 

「帝国の政策は明治の初めに定めた開国進取の国是により、今後は、国権の拡張を謀り国利民福の増進に努める。そのためには世界の多方面で経営をするが、中でも日露戦争で大変な数の人命と財産を投入して得た満洲、韓国での利権と、アジアの南方並びに太平洋側に伸びる民力の発展を擁護当然ながら拡張することが帝国施政の大方針・・・」(『榎本武揚と国利民福 Ⅳ. 最終編 序章』)

 

 『国防方針』では、国家権力の拡大と国利民福の増進のため、大陸の北進で得た利権を守り、アジアの南方および太平洋側に伸びる民力の発展を擁護しつつ拡大することが、帝国施政の大方針だ、としました。太平洋側に民力を伸ばそうとしたのは、榎本達でした。榎本が、ヨーロッパの歴史に通じているということは、世界各地で行われた植民地争奪戦の歴史をも知っていることを意味します。アジアの南方、すなわち東南アジアでは、欧米列強の殖民地割が確定していました。スペインの国力低下により、日本が開国した時期は、いよいよ欧米列強の領地獲得競争が太平洋で始まる時期であり、太平洋に面した日本が列強に太平洋を分割される様を黙ってみている手はありません。榎本は熱心に太平洋の探検や、殖民事業を啓蒙、推進したのでした。

 

 では、南進策はどのような展開だったのでしょうか。以下、田中宏巳『真相−中国の南洋進出と太平洋戦争』(龍渓書舎、2021、p.87-95)から関係箇所を抜粋、引用して考えてみます。

 

 昭和になり日本陸軍は、1931(昭和6)年、柳条湖事件を起点に大陸での戦火を拡大させ、中華民国の蒋介石政権と日本軍との戦闘は大陸内部で続きました。欧米列強が蒋介石政権へ援助物資を送るルートを援蒋ルートと呼びました。援蒋ルートから送られてくる物資を用いて国民党軍は戦闘を継続し、日本軍は戦闘を終了させられなくなりました。援蒋ルートを遮断するための作戦立案を海軍が先導し、海軍主体となり陸海軍で海南島攻略を実施しました。海南島を占領し、飛行場を作れば、援蒋ルートを空からの監視と、攻撃ができるという狙いでした。

 1937(昭和12)年9月、台湾に拠点を置く海軍は基地を出発し、東沙諸島に上陸、翌年は、西沙群島、新南群島(スプラトリー諸島)を台湾に編入しました。『海軍の南進策の本格的始まりである。1939(昭和14)年2月、ハノイ・ルートとビルマ・ルートの二つの援蒋ルートの遮断を目指していた日本軍は、中国にとって南シナ海の玄関口になる海南島の攻略作戦を実施し、南シナ海の要衝はことごとく日本の占領するところとなった。』

 海南島は中国にとって南シナ海の玄関口ですが、日本から海南島を眺めると、欧米列強の東南アジアの殖民地帯の玄関口であると言えます。1939(昭和14)年2月11日、日本軍は海南島の主要拠点を占領しました。日本軍の海南島占領について、蒋介石は翌日の2月12日、重慶で外国人記者に、「奉天(現在の瀋陽)は満州事変の発端であったように、海南島は太平洋事変の発端になるだろう、日本が海南島に空軍根拠地を作ると、太平洋における国際情勢が一大変化する、つまり、日本は大陸での戦争を終わらせるつもりは無く、戦争を太平洋に拡大する決意がある」と語りました。

 

図3.海上の奉天(瀋陽)、「海南島」

 

 

 著者によると、そのような展開−大陸で戦っていて、大陸での戦闘を有利にさせるため、海南島に援蒋ルートの監視体制を構築すると、そこは、それぞれの殖民地に陣取った欧米列強の勢力圏(資本関係*)が交差するエリアなので、英蘭仏米との緊張が一気に高まり、日本は中華民国のみならず、太平洋で欧米列強とも戦わなければならなくなる−と考えることができた日本人はいなかったとし、その原因を分析して論じています。

 

 蒋介石のような思考ができる日本人は、榎本武揚、唯一人です。ヨーロッパの歴史と地理に詳しい榎本なら、南シナ海の情勢について語ることが出来ました。しかし、榎本は1908(明治41)年に亡くなっていました。

*前掲、田中宏巳、p.108
参考: 
三牧聖子『世紀転換期の通商立国論-明治期南進論再考-』日本思想史学38(2006)、pp.155-173
     矢野 暢(とおる)『「南進」の系譜』中央公論社、昭和50

(了)

・解説用地図は、google mapsをベースに作成した。

 

【補足】

1.細谷十太夫と十太郎

2.大井憲太郎

 

1.細谷十太夫と十太郎

 

【細谷直英十太夫】

 

『細谷は、明治20年(1887年)、元仙台藩士の横尾東作(1839~1903)が灯台巡視船の明治丸を政府から借り受けて行った南方探検に同行しています。・・・横尾は南方進出論を主張した人物ですが、細谷にも南方開拓の夢があったのかもしれません。というのも、細谷の長男、細谷十太郎が明治から昭和にかけてニューギニアに渡り、綿の栽培などの事業を興したからです。』

 仙台藩の細谷直英十太夫(1840~1907)は、『戊辰戦争では、[東北の親分子分、侠客たちを統率して]「衝撃隊」[黒装束だったので鴉組とも呼ばれた]を結成し、ゲリラ戦で新政府軍を悩ませ、勇名をはせました』が、仙台藩が明治新政府に対し降伏を受け容れると、細谷は潜伏しました。細谷は明治3年に北海道へ渡る途中、弘前の景勝院に幽閉されていた小杉雅之信(後に、雅三)に面会し、三男の辰三を小杉家へ養子に出す約束をした*¹と考えられます。後に、辰三は小杉家の長男として受け入れられ、小杉雅三の二代目になりました。細谷直英は、明治3年、北海道日高国沙流郡仙台藩開墾場司長になり、明治5年に開拓使に出仕し、西洋農業法を学びました。辞職後、磐前県(いわさきけん)*²に奉職し、農業係専務となり、明治6年に磐前県が廃止された後も明治9年まで在職しました。

 

参考および引用: 

高成田亨『戊辰戦争を再考する』情報屋台、http://www.johoyatai.com/2937

橋本進『咸臨丸環る』中央公論社、2001、p.279-280
現在の福島県浜通りのエリアにほぼ相当。 
 https://www.nta.go.jp/about/organization/ntc/sozei/tokubetsu/h15shiryoukan/img/tenji_img/map.jpg

 

 細谷は、翌年10月3月に警視庁に奉職し、警視庁小警部に就任しました。西南戦争(明治10年1月-9月)では陸軍少尉兼警部として転戦し、活躍しました。明治11年5月に宮城県属に任じ、士族授産場掛かりを命じられました。明治13年11月、士族授産のため牡鹿郡士族開墾場を宮城県令に立案し開設しました。細谷は、初代場長に任命され、明治14年3月に士族の入植者が開墾場へ移り住みました。(時期は特定されないが、細谷は官職を辞し、自ら開墾に専念をした)

 明治15年に十勝地方の幕別町に移住しました。明治20年11月に、前述の如く、細谷は横尾が企画した南洋無人島探険に共鳴し参加しました。細谷は、探険結果は思わしくなかったと考え、帰還後はブラブラしていました。細谷は、明治3年以来、ほとんどの期間、開墾事業に取り組み、また西洋農業法を学んだ経験がありました。細谷の経験から南洋は期待したような土地ではなく、特に士族授産のための開墾場が見あたらなかったので、期待外れだったのでしょう。

 明治21年6月、北海道十勝国土人勧業奨励掛かりとなり、再度、北海道に渡り、十勝郡外五郡に散在するアイヌに耕耘(こううん)の方法を指導しました。明治24年に開拓使庁が廃止になり、退職した細谷は仙台へ帰りました。翌25年に再度、牡鹿郡大街道士族開墾場長に推挙され、改めて開墾事業に取り組みました。

 細谷は、日清戦争(明治27-28年)が起こると、仙台義団を結成し従軍を志願しましたが却下されたため、仙台第二師団の兵站業務を志願すると許可されました。台湾が占領されると大陸から台湾へ移動し、嘉義で守備につきました。明治29年4月、勤務交代になり、台湾から仙台に引き揚げました。

 引き揚げ後、開墾場に戻りましたが、体力、気力の衰弱を覚え、その後は仏道に入り修行を積み重ね、敬慕する林子平の菩提寺(仙台市青葉区子平町)の住職になりました。細谷直英は明治40年に亡くなると、同じ境内に埋葬されました。法号は『当山八世中興鴉仙直英和尚』です。

 

出典

・石巻市史編纂委員会『石巻市 第四巻』石巻新聞出版部、昭和37年、p.99-103
・富田広重『東北の秘史逸話 第2輯』史譚研究会、昭和5、p.65-66
・櫻田憲章編集『烏組隊長 細谷』櫻田憲章、江北書屋、昭和6年
・北海道開発局帯広建設部治水課『地域産業第4章十勝開拓と川「十勝内陸に移住した人々」』 
  https://www.hkd.mlit.go.jp/ob/tisui/kds/pamphlet/tabi/pdf/04-01-tokachi_he-p158-169.pdf

 

 

【細谷十太郎】

 

 細谷十太夫の長男、細谷十太郎(小杉辰三の実兄)は東京農林学校を卒業し、北海道で開拓に取り組み、台湾が日清戦争で日本の領地になると、台湾に渡り軍嘱託になりました。ところが、細谷十太郎は、突如退職し、夫婦でアモイに渡ると、細谷は妻と決別してシンガポールへ行き、土地租借を英国より勝ち取り、事業を営み、次に、スマトラ、ボルネオ、セレベスを経て、ニューギニアにたどり着きました。ここで、粗末な掘立小屋に赤褌一つで生活を始め、事業を興しました。現地人とも交わり、農業の指導や病人の治療に当たりました。自身に必要な食料も現地人が困っていると分け与えました。かくして、十太郎の人格を広く土地の人々は認め、尊敬を集めるようになりました。十太郎は、ニューギニアで25年間、事業を営んだのち、昭和7年に39年ぶりに帰国しました。帰国後、日本の朝野が北方大陸にのみ心を奪われ、未だに南方問題に無関心であることを憂慮し、東奔西走して重要性を説いて回りました。とある一日は、実の弟である、小杉辰三海軍少佐(神戸製鋼所創設者の一人)に伴われ海軍大臣を訪れ、南進論、南方経略を講義しました。翌昭和8年、1月26日、風邪が原因でなくなりました。71歳でした。

 

参考: 
・南洋経済研究所 編 小杉方也(述)『細谷十太郎翁略伝:南洋資料65号』南洋経済研究所、昭17(小杉方也(みちなり、1895-1955)は小杉雅之信の三代目)
・沢田謙「細谷十太郎」『山田長政と南信先駆者』潮文閣、昭和17、pp.275-281

 

【備考】「直英」なのか「眞英」なのか。

 十太夫はいわゆる通称である。戦前、昭和17年に出版された南洋冒険ものの本や、実の甥である小杉方也の口述による『細谷十太郎翁略伝』(南洋資料第65号、昭和17年)では細谷十太夫を「眞英」とし、また、最近の論文や出版物でも「眞英」と記載されているものがある。一方、細谷十太夫の手記を努めて原書のまままとめあげたという、櫻田憲章『烏組隊長 細谷十太夫』(江北書屋、昭6)では、自身は「直英」、父は、「十吉(直高)」であると記した。この本は21章からなり、20章までが手記、21章は、編集者が著し、細谷十太夫の法号を『当山八世中興鴉仙直英和尚』であると紹介している。また、明治9年印刷物、同10年手書きの官職録でも「直英」と記されている。ここでは、「直英」とした。

 

2.大井憲太郎

『自由党領袖で大阪事件計画者として知られる大井憲太郎と南洋貿易の関係については、 以下の事項が判明している。後年孫文に多額の資金援助をしたことで知られる梅屋庄吉は、兵略商略を並行して富国 をはかり日本人こそアジア革新の指導者となるべきとの大井の主張に感銘し、1894年(明 治27)3月、大井に南洋貿易と移民の計画 をもちかけた。これに賛同した大井は翌年4 月、養子の千之と代議士の清水栄三郎を、梅屋同行にてシンガポールに派遣する。大井自身は6月頃、一時帰国した梅屋に伴われて シンガポールに向かい、千之・清水と合流し、 丸山友次郎経営の大和館に下宿する。・・・大井は1898年 (明治31)頃、東京市芝区三島町10で南洋貿易商会を営業する。』

引用元: 高橋 賢『大井憲太郎と南洋貿易』愛知大学綜合郷土研究所紀要、2017

 

 


この記事のコメント

  1. 青柳靖 より:

    足尾銅山の被害者は北海道に移住した記録があるそうですが、南方のほうが豊かになれたかもしれないと思ってしまいました。
    https://www.jstage.jst.go.jp/article/suirikagaku/58/1/58_143/_pdf
    いずれにしても日本は植民地にもならずよく耐えてきたと改めて思いました。

  2. 中山 昇一 より:

    青柳様
    論文を紹介いただきありがとうございました。
    明治の人々のエネルギーを知り、これからも殖民地にされないよう、頑張らなければと、あらためて思います。

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