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戦前の亡霊たちによる皇室典範の改正

2026.07.20 Mon

皇室典範の改正案が衆議院に続いて、7月17日に参議院でも可決され、成立した。旧宮家の男系男子を養子に迎えることを認め、女性皇族が結婚後も皇族の身分に保つことを可能にする改正である。女性天皇の容認は含まれていない。

私たちの社会は戦禍による焦土から再出発し、新しい憲法の下で「男女平等」を国是として歩んできた。今回の改正は、その歩みを真っ向から否定する内容であり、「戦前の亡霊たちにすがりついた改正」と言うしかない。

とりわけ問題なのは、国会審議の中で自民党の小林鷹之政調会長が「皇位の男系継承は2600年以上にわたって先人たちが守り抜いてきた皇室の伝統」と語り、山谷えり子・自民党参議院議員も「2600年以上にわたり、連綿とつながれた皇統の伝統と歴史」と述べたことだ。いずれも、事実の裏付けのない、戦前の妄説である。それが国会という公けの場で堂々と語られた。信じがたいことである。

天皇制の下で戦争の道へと突き進んだ当時の政府は、1940年(昭和15年)は「神武天皇が即位してから2600年にあたる」として大規模な記念式典と行事を挙行した。「日本書紀によれば、初代の神武天皇の即位は紀元前660年」という当時の見解に基づくものだった。

だが、初期の天皇についての日本書紀の記述は「神話」と見るしかない。初代の神武天皇はその事績が長々と綴られ、127歳で亡くなったと書かれている。続く第2代の綏靖(すいぜい)天皇から第9代の開化天皇までは系譜が短く記されているだけで、事績についての記述はほとんどない。「欠史八代」と呼ばれ、第6代の孝安天皇の137歳を筆頭に100歳超えの天皇が頻出する。事実と受けとめるのは困難な内容だ。

このため、歴史学界では何代目の天皇から実在したとみなすか、論争が続いている。実在したと考えられるのは①第10代の崇神天皇以降、②第15代の応神天皇以降、③第26代の継体天皇以降と諸説あり、いまだに決着がついていない。初代から実在したと唱える研究者はごく一部に過ぎない。

皇統2600年説は明治から戦前にかけての政治家や軍人、学者たちが作り上げた妄説であり、何の裏付けもない。それを21世紀の日本で、政治家たちが公然と口にした。暗澹たる思いで皇室典範の改正論議を見ていたのは私だけではないだろう。

2600年説には、天皇の陵墓という観点からも疑念が生じる。そもそも、2600年の起点となるはずの神武天皇の陵墓自体が本物なのかどうかあやしい。

歴代天皇の陵墓は、平安末期と戦国時代の混乱の中で荒廃し、多くが盗掘にさらされた。天皇の権威が地に落ちた時代には陵墓の管理もままならず、どの陵墓がどの天皇のものなのかも判然としない状態が長く続いた。

神武天皇の陵墓については、江戸時代から三つの候補地が挙がっていた。奈良県の畝傍(うねび)山の北東にある四条村の塚山、山麓にある洞(ほら)村の丸山、そして両者の間にある山本村の神武田(じぶでん)の三つである。そのうちのどれが神武天皇の陵墓なのか。当時の国学者の間でも論争になり、幕府は元禄時代の修陵では四条村の塚山を神武陵として整備した。一方、江戸後期の竹口英斎と蒲生君平は「洞村の丸山こそ神武陵」と唱えた。

幕末から明治初期にかけて、天皇陵の治定(じじょう)が急がれる中で、「この陵はこの天皇のもの」とあわただしく決められ、陵墓の整備が進められていった。神武天皇の陵墓については、江戸時代を通して有力視された四条村の塚山でも洞村の丸山でもなく、幕末に天皇の勅裁によって、第三の候補地の山本村の神武田が神武陵と定められた。

その間の経緯については地元出身の研究者、辻本正教(まさのり)の著書『洞村の強制移転  天皇制と部落差別』が詳しい。辻本は著書で蒲生君平の『山稜志』の次の部分を引用している。

「(洞村は)今、屠者の村になっている。伝えによれば、その民はもと神武陵の守戸であったという。およそ陵を守る家はみな賤種であり、もと罪を犯して賤とされた者たちが彼らである。彼らは里人とはならばず、そのゆえをもって、ついにその業を屠者に転じ、穢多(えた)と称されるようになった」

初代天皇の陵墓が賤民の村にあったとするわけにはいかず、第三の候補地であった田んぼの中の小さな塚を神武陵とした、ということだろう。小さな塚は天皇崇拝が強まるにつれて大々的に整備され、広い敷地と豊かな森に囲まれた神武天皇陵となっていった。すぐ近くには橿原(かしはら)神宮があり、「神武天皇が即位した地」として、多くの参拝者を集めている。ただし、「即位した場所は別のところ」という異論もあり、こちらも記紀の記述に基づいて明治以降に唱えられたところによれば、と条件を付けて考えるべきだろう。

神武陵の所在地ではない、とされた洞村はその後、どうなったのか。一時は「山麓にある村から神武天皇の陵墓を見下ろすなど恐れ多いこと」として強制移転させられた、という説が唱えられたが、実際は異なるようだ。

辻本はその著書で「強制移転はある種の虚構にすぎない」と断じている。明治天皇の死去に伴って天皇崇拝の機運が高まる中で、洞村を含む被差別民の側から1917年(大正6年)、奈良県知事あてに「宮内省に土地を献納し、御下賜金を得て住民あげて移転したい」との願書を出した事実がある。移転先探しに苦労したものの、その後、近隣地区に全村で移転した。むろん、差別意識の強い周辺からの圧力はあったにせよ、下賜金は支払われており、「強制移転」とは趣が異なる。

天皇制をめぐっては、初代の神武天皇だけでも、これだけいろいろな経緯と論争がある。「2600年にわたる皇統の伝統」などという虚ろな言葉を弄している場合ではない。天皇制の存続を願うならば、過去の亡霊たちが唱えた説などではなく、21世紀の世界を見渡し、新しい道を切り拓く勇気をもって、皇室典範の改正を考えるべきだろう。

長岡 昇(NPO「ブナの森」代表)

*初出:調査報道サイト「ハンター」 2026年7月20日
https://news-hunter.org/?p=31862

≪写真説明≫
◎奈良県橿原市の神武天皇陵=筆者撮影(2025年5月)

≪参考文献≫
◎『日本書紀(一)』(坂本太郎、家永三郎、井上光貞、大野晋校注、岩波文庫、1994年)
◎『全現代語訳 日本書紀(上)』(宇治谷孟、講談社学術文庫、1988年)
◎『洞村の強制移転 天皇制と部落差別』(辻本正教、解放出版社、1990年)
◎蒲生君平『山陵志』(国立国会図書館デジタルアーカイブ)
https://www.digital.archives.go.jp/img/1233605#4
◎『女性天皇論』(中野正志、朝日新聞社、2004年)
◎『万世一系のまぼろし』(中野正志、朝日選書、2007年)


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