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榎本武揚と国利民福 最終編二章-3-(1)  勢力均衡点の流動化(後編)

2022.09.30 Fri

図3 ユーラシア大陸の政治的破砕帯

 

 

最終編二章-3-(1)  勢力均衡点の流動化(後編)

 

 

・政治的破砕帯に踏み込む

 

 

 ユーラシア大陸の東西両端に政治的破砕帯と呼ばれる複数大国の勢力圏の狭間に位置する弱小国群があります。ユーラシア大陸の中央部は、19世紀以来、南侵しようとするロシアとロシアの南侵を海洋側から阻止しようとする英国がプレーするグレート・ゲームの盤面となります。

 

 

【幕末の国際法と勢力均衡への理解】

 

 

 徳川幕府を筆頭に欧米列強と交渉し、『一国の独立は勢力均衡[バランス・オブ・パワー]と国際法[諸条約]が大きな影響を与えるという理解が江戸時代末期から日本の政治社会に浸透していった。』、『明治日本の東アジア政策は、幕末日本に定着した勢力均衡と国際法に依拠していた。』と大澤博明『明治日本と日清開戦』*で論じられています。

*吉川弘文館、2021。池田筑後守長発(ながおき)の主張、徳川慶喜の兵庫港開港の必要性を訴えた上奏文、福澤諭吉の『西洋事情 外篇』が紹介されている。

 

 徳川慶喜の兵庫開港の必要性を訴えた上奏文(慶応3年3月5日(1867年4月9日))の中で、関連個所を引用します。

 

『しかるところ今更かれこれ申し断わり候儀は、これまで苦心仕り候富強の術も一時に尽き果て申すべく、かつ条約の儀は、各国交際の基本にて、永久不易の規則これなく候ては、大は小を凌ぎ、弱は強に制せられ候ように相なるべく、西洋諸国大小強弱は御座候えども、全く信義を重んじ、条約を遵守いたし候につき、凌奪併呑の憂いもこれなく、それぞれ立国まかりあり候ことにて、条約の守否は、国の存亡にかかわり候儀に御座候えば、かたがた、もって一旦取り結び候条約は、 ぜひ遂行申さず候ては相なりがたく存じ奉り候。』

出典: 田辺太一著、坂田精一訳・註『幕末外交談 2』東洋文庫72、昭41、p.280

 

 

 

【破砕帯】・・・政治地理学または歴史地理学

 

 

 1987、歴史地理学会誌(138)に故黒崎千晴*は、『文明圏と破砕帯』を発表しました。この論文の中で、政治地理学の「破砕帯」(crush zone, shutter belt, political lift valley, tension area等々)という概念を紹介し、論じています。破砕帯は、数百年、千年も継続的な地帯であるとし、その概念を次のように定義し、特徴を上げています。歴史地理学的には、破砕帯は、複数文明が接触交錯する遷移帯(森林帯-草原、大陸-海洋、大生態系とも呼ぶ)で生じると考えられています。

*黒崎千晴(くろさきちはる、1923-2007) 長野県生。東京文理科大学卒、早稲田大学高等学院などを経て、筑波大学教授、歴史地理学。地政学。
(石井英也「黒崎千晴先生を悼む」『歴史地理学』第49巻第4号、歴史地理学会、2007年9月、 33-34頁)

 

 破砕帯とは、「対立的な複数の大勢力(超大国・大国)の狭間に存立する小国または弱小国群を意味し、これら複数の大勢力による軍事的、政治的、経済的等々の干渉や圧迫を受けがちで、国内的にも国際的にも政情不安定が慢性化しやすく、国際紛争が多発・反復しやすい地帯とされている。その形成要因としては、帝国主義体制下にあって超大国・大国の勢力圏拡大志向から招来する勢力圏の接触・交錯が主因としてあげられ、それとともにこの種の外部勢力浸透に対する弱小諸国の対応如何が指摘されている。」

 

 ユーラシア大陸の場合、「ユーラシア大陸の西部、ゲルマン・ロシアの両大民族の狭間で生存を余儀なくされて来たバルト沿海や東欧の諸民族、バルカン半島諸国であり、東部では大陸的二大勢力と海洋勢力との間に介在する朝鮮半島であり、漢・ヒンズー両文明圏の接触・交錯する東南アジアである。東南アジアには19世紀以降は別の外部複数勢力[欧米列強]の干渉があり、今日なお継続している。」

 

 さらに破砕帯では以下のような様相を呈するとしています。

 

・外部要因

  • 超大国・大国は自己の社会体制、価値体系こそ絶対的なものとして、対抗する超大国のそれらを否定し、自己の防衛前線の確保、拡大化をする傾向が著しく、自国の勢力圏に属する各国に対し、自国の体制・体系の受容・順応を強要しがちであり、「中立」さえも悪とされることがある。
  • 対立的な他勢力の弱小国などに対し、国内的な不安定化を計画、実行し、その結果生じた混乱の長期化を期待し、機会を見て、自国の勢力圏への編入を意図する。

 

・内部要因

  • 破砕帯各国は一般的に、その国民の民族構成が複雑、社会階級も対立的なため、一国の命運を左右する指導的勢力は見掛けだけである。
  • 指導的と目される階層でさえ、国外の大勢力との連携のみ腐心しがちで、一般大衆への配慮は論外という傾向が著しい。この種の指導層への反発から、被圧迫民族や階層、軍人・学生、時には宗教団体等々が、従来とは異なる別個の国外勢力へ接近しがちで、そこに物質的援助や心理工作などが行われ、国内政情不安定が慢性化する。

 

 

 黒崎論文では、ユーラシア大陸東部の政治的破砕帯は朝鮮半島であるとしました。黒崎論文から、榎本は、自身のヨーロッパの歴史知識から日本は政治的破砕帯の朝鮮半島にかかわるべきではないと考えた理由が分かります。

 

 ユーラシア大陸に対し日本列島で囲んだ日本海や南西諸島で囲んだ東シナ海は「縁海(えんかい)」と呼ばれており、縁海の大洋側に位置する日本列島や南西諸島は、直接大陸と接続していませんが、大陸的勢力と海洋的勢力が相手の領域に進出しようとするとき、双方の中継地*になります。

*オールコック(初代駐日英国公使)は、日本との貿易は英国経済への貢献は微々たるものだが、東洋における英国の「前哨地」としての貢献は大きいと考えていました。
オールコック著、山口光明訳『大君の都 下』岩波文庫33-424-3、1962、pp95-95。『西洋諸国、とくにわれわれ[イギリス]は、東洋に大きな権益をもっており、日本はその東洋の前哨地である。・・・対日貿易などはなくてもよいであろう。・・・この帝国という連鎖の一環たりとも破られたり傷つけられたりするようなことがあれば、たとえそれが日本のような東洋のはてにある遠隔の土地で起こったとしても、連鎖全体にたいしてなんらかの危険と害をおよぼさすにはおかない。』

 

 アヘン戦争後(1839‐1842)の1844年3月11日、フランス極東艦隊は琉球の那覇港に入港し*、和親と交易を求めました。1846年から1848年に行われた米墨(メキシコ)戦争で、米国がカリフォルニアを手に入れたとき、米国の北太平洋の海洋勢力圏のフロンティアは、清国および中継基地の日本列島にまで広がりました。ニュー・フロンティアの発生です。

 *大石学編『幕末維新史年表』東京堂出版、2018

参照文献: 
・飯本信之『政治地理学』改造社、昭4pp.77-80
・内田先生還暦祝賀会『内田寛一先生還暦記念 地理学論文集 上』帝国書院、昭27、pp.59-65、pp.129-140

 

 

【北太平洋に米国のシーパワーが出現する】

 

 

 クリミア戦争(1853‐1856)が起き、グレート・ゲームの戦域は極東のカムチャッカ半島にまで拡大しました。米国は列強がクリミア戦争に関わっている隙に、清国での利権獲得に向けて日本を利用するため砲艦外交で日本に開国を迫り、英露は極東でのグレート・ゲームで日本を利用するため、米国に続いて日本に和親条約を求めました。1858年、日本は英米露仏独の五カ国と条約を締結し、欧米の国際秩序に組み込まれました。

 1840年代に米国の捕鯨船団はハワイに捕鯨の中継基地を作りました。ハワイの国王カラカウア*¹は、米国の影響力を心配して、明治14年(1881年)3月に来日し、明治天皇にハワイ・アジア連合を提案しました。翌年3月、日本(井上外務卿)は、打算から断りました。ハワイでは明治20年(1887年)に米国人によるクーデターにより国王は議会への権限を失い、アジア系移民は投票権を奪われました。北太平洋の人々やアジア人は、まるで洋上の北アメリカのインディアン(ネイティブアメリカン)のような扱いをされたのではと思える差別待遇でした。榎本の子分のような存在である、安藤太郎総領事は日本からの抗議を要請しましたが、埒が明かないばかりか、事態は悪化の一途をたどりました。

 1890年(明治23年)、マハンの『海上権力史論』*²が刊行されました。太平洋における「真の争点は、太平洋の要を支配し優位を占めるのが野蛮なアジアか、それとも西欧文明国のアメリカかということだ」というマハンの戦略的思想をセオドア・ルーズベルト(1858-1919、1897年に海軍次官補に就任)*³が実現しようとしました。*⁴その後、ハワイ王国は、日清戦争の前年、1893年(明治26年)1月に米国に侵略され、共和制を打ち立てられ、王政が廃止されました。米国人らはハワイ共和国と名乗りました。

*¹カラカウア(David Kalākaua、1836-1891) ハワイ王国の第7代国王。カメハメハ5世の死後、ハワイ国王は王族の中から議会選挙で選ばれることになった。ハワイの経済発展のため、米国に接近したが、後に米国に王国を奪われ、ハワイ王国最後の国王になった。米国の圧力に対し、ハワイ・アジア連合やポリネシア連合を提案したが、実現しなかった。1898年(明治31年)2月にキューバのハバナ湾で始まった米西戦争の結果、米国はスペインからフィリピン、グアム、キューバ、プエルトリコを奪った。米国はハワイを同年8月、第50番目の州として併合し、ハワイ王国百年の歴史は幕を閉じた。
*²北村謙一訳、アルフレッド・マハン『海上権力史論』原書房、1982
*³出典 「『坂の上の雲』と公文書」(アジア歴史資料センター)
*⁴1897年2月27日に契約移民以外の自由移民の上陸をハワイ政府が拒否し、外交問題化しました。日本側の抗議に対し、米国側で大きく報道され、日本側は「攻撃的」態度をとっているとし、また「邪教対キリスト教」の問題、人種問題としても議論を呼んだ。米国人の日本人に対する悪意ある悪質な対応が表面化していった。(参考 中島弓子『ハワイ・さまよえる楽園 ―民族と国家の衝突』東京書籍、1993、p.112)

 

 

 この事態を憂慮した日本政府は、邦人保護の目的で東郷平八郎浪花艦長率いる軍艦2隻をハワイへ派遣しました。先にハワイに到着していた僚艦の金剛艦長はハワイ共和国建国を祝う礼砲を求められましたが断りました。翌年、ハワイ共和国初代大統領がハワイ共和国建国一年の祝砲を、ハワイを訪れている日本の軍艦に求めましたが、このときも日本(東郷艦長)は強く断り、英米艦も追従しました。

参考文献 小笠原長生編著『東郷元帥詳伝』忠誠堂、昭和2年、原著大正15年、p.87、p.91

 

 

 明治26年1月に北太平洋のハワイは実質米国の支配下にされ、尚も、北太平洋のスペイン領を米国の海陸軍は狙っていました。新興国の米国が急速に北太平洋に進出し、勢力図が大きく変わり始めていたのです。日本は1858年の開国で太平洋側が新たな正面になり、北太平洋の勢力圏は大きく変動し始めていました。ペリー提督が江戸至近の地点で砲艦外交をした目的は、捕鯨船*への補給や船員保護と交易でしたが、重要な点は、清国との貿易のために日本列島や琉球を中継基地に利用することにありました。その米国のシーパワーが北太平洋で顕在化し、極東、東アジアの目前に迫っていたのです。

*鯨自体の減少と合わせて『1859年にアメリカ東部ペンシルベニアで油田が開発され、アメリカ漁船の燃料が容易に自給できるようになったことと、北極で捕鯨船が三三隻も流氷に衝突するなど多くの被害にあったこと、また、アメリカ国内に南北戦争が勃発し、船舶が貿易に従事できない状態が続いたことなど』から捕鯨は衰退に向かった。(『中島弓子『ハワイ・さまよえる楽園 ―民族と国家の衝突』pp.40-41)

 

 明治26年9月、山縣有朋は政府に長文の意見書を提出しました。山縣の意見書*で、本論と関係ある箇所を紹介します。国家の第一の目的は独立の維持なので、軍備の充実が必要となるが、国民に重たい負担を与えることになる。この不幸は、実は「国家の安全と人民の福利とを購ふの資本」にほかならないと冒頭訴えました。「国利民福」の「民福」を「人民の福利」と書いています。民福はよく国民の幸福と説明されますが、人民の福利、福祉という説明も必要だと山縣の文章から分かります。話を本題にもどしますと、この意見書は大陸の勢力変動予測を論じていて、シベリア鉄道が完成後のロシアの侵略行動を想定し、ロシアの侵略行動に対しフランス、英国の反応と相互の行動を分析し、論じています。ロシアの侵略行為に反応する国は英仏とし、露仏英が大陸での侵略のプレーヤーと規定し、日本は攻守ともに軍備を充実させ、機会を逃さず利益をとるべきだとしました。(岡義武『山縣有朋』岩波文庫青N126-4、2019、p.81)

しかし、北太平洋に陣取った米国をプレーヤーとする視点が欠落していました。

 

 1890年(明治23年)3月、ビスマルクは首相を辞任しました。ビスマルクによって作られたヨーロッパ諸国のヨーロッパにおけるパワー・バランスによる平和は終了し、ヨーロッパの国際政局は流動化しました。1890年代*は、欧州列強がアジア・アフリカへ活発に帝国主義的拡張をしました。その結果、ヨーロッパでの国際関係と中国での諸案件は連動し始めました。世界中が一つの国際政治の場と化したのでした。日本と米国は奇しくも同時期に、この国際政治の新たな構成要素となりました。

『日本および米国が登場したことに注目する必要がある。日本は日清戦争(1894-1895)に勝ち、1902年に日英同盟を結んだ。そのことがやがて日露戦争(1904‐1905)の勃発の背景となった。他方、アメリカは1898年の米西戦争の結果、フィリピンを領有することとなり、好むと好まざるとにかかわらず、東アジアの国際政治の一大要因となった。』(坂野正高『近代中国政治外交史』pp.393-394)

*岡義武『国際政治史』岩波現代文庫、2009、p.110、原著『岡義武著作集』第七巻、1992.

 

参照:The Gathering Storm — 75th World War II Commemoration (75thwwiicommemoration.org)

"The Gathering Storm"  (A Countdown to Pearl Harbor: 1853 to 1941)
 Conflict is brewing in Asia. The old world order is changing. Two new powers, the United States and Japan, are rising to take leading roles on the world stage. Both seek to further their own national interests in the hope to avoid war. Both have embarked on courses of action that will collide at Pearl Harbor.

『争いの嵐はアジアで吹き荒れ、古い世界秩序は崩れ、米国と日本という二つの新興パワーが世界の舞台での主導権を競うことになり、両者とも、戦争は避けたかったものの、真珠湾での衝突に至る道に乗り入れた』

 

 日清戦争に突入すると、その後、日露戦争を誘引し、ついには太平洋戦争、大東亜戦争に突入するような道筋が用意されていることを日清開戦派は見通せたのでしょうか。見通せなかったとしても、内閣は、当時の国際法による日本から清国に宣戦布告する理由がなく、もし開戦すれば国際社会から非難を浴びるだろという答申を外務省法律顧問から得ていました。この答申により、開戦を主張し連名署名した、薩摩軍人高島鞆之助、仁礼景範、樺山資紀らに対し、西郷従道、大山巌、川村純義、黒田清隆、松方正義は平和交渉を支持しました。(大澤博明『明治日本と日清開戦』)
李鴻章も清国内で戦争回避を主張していました。(坂野正高『近代中国政治外交史』p.402)

 

 しかしながら、榎本が陰ながら応援していた天津条約締結の当事者だった伊藤博文も李鴻章も開戦は止められなかったのです。開戦の原因は『日清開戦は日本がアジア連帯と西洋列国との協調を両立させながら東アジア秩序の安定化を図ろうとして清国と朝鮮国に拒否された秩序構築失敗の歴史なのである。日本はこの失敗をきっかけに帝国主義国家へと転生していった。』と大澤は『明治日本と日清開戦』(p.274)で結論付けています。日清戦争の勝利は、アジア連帯派の敗北で、大陸侵攻派の勝利をもたらしました。ここに初期アジア主義と呼ばれた人々の活動は終息し、息をひそめることになりました。榎本はその代表的人物でした。

 

 榎本が先に主張していたように、ロシアの南侵に対し、清国と朝鮮国とは協力こそすれ、この二か国にかかわってはいけないという主張に従えば、その後の戦乱の繰り返しは無かったのです。日清連帯または日英清連帯による東アジアの安定を模索していた伊藤は、日清開戦の日、陸奥宛に『知らず識らずして大洋に乗出した』と書いた書簡*を送りました。

*岡義武『明治政治史(下)』岩波文庫‐青N126-2、2019
(林董『後は昔の記』東洋文庫173、昭45、p.78などを参照、引用している)

 

 日清戦争の結果、満州での清露の勢力均衡点が変わり、日露戦争となり、最後は太平洋戦争、大東亜戦争に行きついてしまいました。明治維新後、日本は大陸国家建設を目指すべきだという人々と日本は海洋国家として交易により生きていく道を作るのだという人々や政治権力を求める人々たちが国内で争っている間に、気づけば、日本は海洋国家の位置から滑り落ち、破砕帯になってしまったのです。これが明治維新の結末でした。

 

 榎本は、明治28年12月8日、旧幕臣とその子弟および静岡県出身の将校、兵士らを徳川慶喜邸に招待し、日清戦争の凱旋歓迎会を開きました。榎本は、今回の勝利は徳川家が三河以来300年間励みつづけた「武士道」*の賜物であると、将兵に賞賛と感謝の意を表しました。新渡戸稲造の『武士道』(英語版)が出版される明治32年より4年前のことでした。

 

*大久保利兼編『同方會報告』第一巻、立体社、昭和52年、p.20

『天皇陛下の御威稜に依るといへとも抑亦我陸海軍の將士報國の義に篤く決死の勇を振ひ以て事に従ひしの効と謂はさるを得す而して其將士多數の中に在て我徳川幕府の舊臣及其子弟と静岡縣人士數百人の多きに至れるは顧ふに我徳川氏の祖宗三河以来三百年開廉恥を重し義勇を尊ひ所謂武士道を淬勵[さいれい、激励、ふるいたたせる]せられたるの遺風猶存するものありて然るを致すにあらすや是れ實に我等如き會て同しく幕府の禄に衣食せしものに於ては特に光榮あるものにして深く諸君に向て謝せざるを得す・・・』

また、毎日新聞の記事には、「徳川慶喜、榎本、赤松、矢吹*らの胴上げが行われた」と書かれている。

*矢吹秀一(やぶきひでかず 1848‐1909) 旧幕臣、明治政府では工兵畑で活躍し、日清戦争時は工兵部長として鴨緑江に架橋し功績を挙げた。陸軍中将勲一等男爵。(コトバンク、樋口雄彦『沼津兵学校の研究』吉川弘文館、2007)

 

補足:

大澤博明『明治日本と日清開戦』、p.10

『強い人間不信、法律・ルール軽視、自己中心的生き方等で示される低信頼社会としての中国社会の性格が対外交渉に反映していると言えよう。日本は、約束を守り、国家間の礼儀情誼(友誼)を示し、交渉者が誠実さや率直さを以て相互の信頼を生み出し共感を抱くような関係を構築することが国際信義に重要な役割を果たすことを理解した。しかし、清は違う。個人や組織に対する信頼が存在し約束が守られる高信頼社会と人間不信・相互不信を前提としたバザール社会・低信頼社会の社会観が国際関係にも反映して異なった外交観として表現されるわけである。掛け値なしの要求を以て交渉に臨む日本外交との違いは大きい。日本と清は、秩序構想、提携関係、交渉態度など多くの点で違っていた。本書では交渉を通じた合意が成らず日本は進退きわまって開戦のやむなきに至ったことを明らかにする。』

 

参考:

・ 榎本武揚と国利民福 Ⅲ.安全保障(後編-3-2-2-A) 『榎本の予測と実際とのギャップが拡大した原因』 http://www.johoyatai.com/3633
以下は、坂野正高『近代中国国際政治外交史』。
・p.403『平壌・黄海の戦いは、たちまち、国際関係、 ことに英露の対立関係に影響を及ぼした。 英国では、九月二十四日付の『タイムズ』社説は、日英両国間に利害の明白な対立はないとし、太平洋に不凍港を求めてやまないロシアの動きは、日英にとって容易ならぬ関心であることを指摘した。ついで十月には英国政府は、後述するように、朝鮮独立・償金支払の二条件で連合干渉を企てた。開戦前、中国の朝鮮支配を支持していた英国は、東アジアにおけるバランス・オブ・パワーの変動によって、たちまち豹変しはじめたのである。他方ロシアは、艦隊をスエズ運河から東アジアに回航させるため日夜多忙をきわめていた*。』*陸奥宗光『蹇蹇録』
・p.418『中国をとりかこむ朝貢国のベルトのなかで、前述のごとく、すでにビルマ・安南は失われていた。 内陸アジアでは国境線が多少後退したが、新たに新疆省を設置して支配を強めた。 蒙古とチベットも手つかずで残っていた。いま日清戦争によって一挙に朝鮮・琉球・台湾を失い、「眠れる獅子」の神話も破綻し、満州王朝の根拠地たる東三省 (奉天省・黒竜江省・吉林省)がパワー・ポリティクスの次の焦点となった (三国干渉がロシアのイニシアティヴによって行なわれたことを想起せよ)。』

 

【ハワイに関する参考文献】 

・中島弓子『ハワイ・さまよえる楽園 ―民族と国家の衝突』東京書籍、1993
・矢口祐人『ハワイの歴史と文化』中公新書1644、2002、p.71
・山中速人『ハワイ』岩波新書291、1993、pp.118-135

画像の出所: 

アイキャッチ画像は、地理院地図(電子国土WEB)から引用した、


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