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榎本武揚と国利民福 Ⅲ.安全保障(中編-2)

2020.08.13 Thu

国利民福 Ⅲ.安全保障 中編-2

 

 榎本がサンクト・ペテルブルクで樺太の領土問題の交渉にどう取り組み、まとめ上げたのか、その中には国利民福が意識されていたのかを考えてみます。

 

・箱館から東京へ

 

 

 榎本たちは官軍に投降後、40日かけて細川藩歩兵中隊に護送され、1869(明治2)年6月30日(34歳)に、東京丸の内、和田倉門前、辰ノ口の兵部省軍務局糾問仮監獄に到着します。この監獄は1868(慶応4)年、大鳥圭介が歩兵頭のとき、歩兵らを罰するために建設し、完成後は大鳥が管理していました。今では明治政府の監獄です。獄中での様子については、大鳥圭介の日記などにもいろいろ語られていて、環境はあまり良くなかったようです。榎本自身の話では、牢に入ると牢頭から名を名乗れと言われ、箱館の榎本だと答えると、皆静まりかえり、牢頭は積み上げた畳からとっさに降り、榎本を座らせたなどと、逸話がいくつかあります。

 

 榎本は唄が得意で、牢で市井の無頼の徒たちと一緒だったから*唄を覚えたのだろうと言われています。音楽家の田﨑義明氏は、小唄『しげく逢(オ)うのは』は明治中期の作品で榎本の作詞として解説されています。最後の句、「あっきれけえるね」は、榎本の江戸っ子ぶりを彷彿とさせます。牢にいる息子に会いたさに、榎本の母親が売り子に化けて牢にいる息子に会いに行ったという人気の講談(講談師桃川鶴女『榎本武揚 恩愛親子餅』)もあります。残念なことに、実際には、榎本が牢を出る前に、榎本の母親は他界してしまいます。

* 加茂儀一『榎本武揚』中公文庫

 

 牢にあっても、榎本や大鳥らは、日頃、化学や物理、西洋の歴史などの本、お金を家族らから差し入れて貰い、原著の石鹸やワインの製造法を訳しながら書き取ったり、史書を読んだりする、勉強する日々でした。おまけにたまにはみんなで宴会もしたという、なにかのんびりした雰囲気の牢内の様子です。

 

 榎本は、オランダ留学時代、英国のロンドンの街の片隅でする市民の演説が議会を動かす様子、米国の新聞が世論を動かす様子を見てきました。榎本が品川から仙台、箱館へと向け脱走する前に、勝海舟に檄文を渡して関係各所、市中にばら撒いて貰い、世論を動かそうとまでした勢い、薩長が興した戦争を私闘と言い切った勢い、その榎本の饒舌さは牢に入ると全くありません。

 

 さらに、榎本は、エンジニアに求められる条件*1のうち二つを欠いたまま、脱走し、箱館を占拠したことを、牢中で深く反省したと思います。その二つとは、1,朝廷の奥深くまで影響を及ぼせる人脈が無い、2、榎本の企画に対し投資するパトロンがいないという事です。この反省は牢から出た後の榎本の処世術に強く影響しました。その結果、榎本が敵軍に寝返り、栄華を貪ったと批判する人がいますし、そういう榎本がいたからこそ実現ができたこと*2も多かったのです。


*1 エンジニアに求められる条件
アーミテージ『技術の社会史』みすず書房、1970の第8章の最後に、カムベル著の『ロンドンの職人』(”The London Tradesman”)1747に記された「エンジニアの定義」は権威があると書かれています。その定義の中に、「技術者は機械のように非常に滑らかに回転する頭脳を必要とする。仕事をするために豊富な資金と上流社会に多数の知人をもつことが必要である。技術者は確固とした、軽率でない理性を持っておらねばならない、そうでないと、事業は多くの無駄を生み不経済な計画になってしまうだろう。」(その他は、組織や賃金について)という条件があります。

*2 実現できたことの一例 「東京開市三百年祭」
 明治になり暫くして江戸懐古ブームが起き、旧幕臣たちは江戸会と八朔会という二つの会を作りました。八朔会には榎本武揚がいて、江戸会のメンバーは榎本武揚ら明治政府に出仕した人々を気に入らない人が多く集まっていました。明治22年は江戸開府三百年なのでお祭りをしようと大同団結し、当時、文部大臣だった榎本武揚が委員長になり榎本ら世話役が対外的な折衝、お膳立て、案内状発送の差出人になりました。江戸開府とは言えず、東京開市と銘を打ちました。三百年祭は大変な盛り上がりだったそうです。祭りには、後の大正天皇、松方正義大蔵大臣、徳川一門たちがいました。(黒田清隆首相は会場の異常な混雑で席にたどり着けず)列席者は東京万歳とやったあとすかさず徳川万歳と声をあげたそうです。安藤優一郞『幕臣たちの明治維新』講談社現代新書、2008

 

 

 宇都宮攻めを前に、弟子に質問され、『榎本は真正直な奴だから、彼の為に人が死ぬ、中々手強い』と答えた長州の大村益次郎は、朝廷への反逆を理由に榎本らの死罪を主張しました。一方、榎本が品川から脱走する以前に、富士山丸で徳川の軍艦を官軍に引き渡す交渉が、榎本ら幹部と薩摩海軍の代表との間で行われ、議論が平行線で終わりました。『薩摩海軍史』にその時の印象を『榎本は風姿颯爽たる好男子にして、其の言う所、皆要領を得、肯綮(こうけい、物事の急所)に中らざる無し。敵ながら、実に榎本には惚れ惚れしたり』と記録されています。薩摩藩は榎本を取り込み、活かそうとしました。

 

 明治2年8月16日の『中外新聞』は、榎本と大鳥は、死一等を宥(ゆる)められ永禁錮となり、脱走兵の兵卒は追々各藩へ御返しになったと報じました。黒田清隆、勝海舟、山岡鉄舟らが奔走した成果でした。

 

 大鳥の日記は、明治3年7月30日から明治5年正月6日の赦免まで記述がありません。この絶筆の理由について、獄中での筆墨の禁の見回りと取り締まりが厳しくなったからか、同じ境遇を毎日書くことになるからか、記憶がはっきりしないと書き残されています。赦免状には、おまえたちは悔悟伏罪(かいごふくざい)に付き、特命を以て赦免する、といった文面がありました。悔悟とは自分のしでかしたことを悪かったと悔いている、伏罪とは罪を認めて刑に服す、です。但し、榎本はこのとき赦免にならず、さらに二ヶ月間は親類預けになり、同年3月6日(37歳)に放免されます。

 

 榎本らが、箱館を後にする時、榎本軍の兵士らの屍は市中、山野に放置されたままでした。明治政府の方針です。箱館では、任侠の柳川熊吉は、明治政府の指示に反し、配下600名の子分に督励し、遺体を厚く葬ります。そういったことは榎本の耳に届いていたでしょう。そして、榎本は、生き残った兵士たちのその後の人生に対しても責任を強く感じていたはずです。

 

 榎本の獄中詩というものがあります。そこで、榎本はこう記します。

 

   『君恩未報逢今日』(君恩に未だ報いず こんにちを迎える)

 

 君恩の右側には括弧付きのルビがあり「国為」と書かれています。この国為の国は日本国を指すのか、徳川家を指すのか分かりません。また、国為は「くにのため」であることは間違いありませんが、為国を日本語の文章に直して国為(くにをなす)にしたとしたら、榎本は日本国家を作るには・・・となります。

 

 「君恩に未だ報いず」を、国利民福をもって解釈すると、以下のようになるでしょう。

 

 君恩は、民に返すことで報うことができますが、私は主君から与えられた使命である、国利民福を未だに実現できていません、私はまだ死ぬことができません

 

 箱館の戦死者への弔い、生き残った兵士らのその後の人生への憂い、主君から与えられた使命が未だに実現できない使命感とプレッシャー、明治政府で働く葛藤が、榎本を大酒飲みにします。夕飯は酒だけでいいという生活です。箱館戦争の敗戦と明治政府への出仕は、榎本にPTSDを引き起こしたと考えられます。後に、榎本は若い頃は酒の一升や二升は軽く飲んだと言ってますが、それは自身のPTSDを隠すためでしょう。

 

 榎本らの赦免について、黒田は西郷隆盛に決着を依頼し、御前会議で木戸孝允が虎を野に放つ程、釈放は危険だという反対意見に対し、西郷は、榎本はまるで庭にいる猫の子のようなものだ、と木戸に言い、赦免を決定したと書いた後日談があります。西郷の言葉は、榎本は在野の虎では無く、朝廷に従順な子猫だという意味でしょう。出牢後の明治政府に示した榎本の姿勢そのものです。

(以上の大鳥に関連する記述は、山崎有信『大鳥圭介傅』北文館、大正4年2月1日、福本龍『われ徒死せず 明治を生きた大鳥圭介』国書刊行会、2004、高崎哲朗『評伝 大鳥圭介 威ありて、猛からず』鹿島出版界、2008を参照、引用しました。)

 

 明治5年3月6日に放免された榎本は、真っ先に黒田の家でなく、西郷の家を訪問します。西郷は出かけていました。そこで、榎本は勝海舟の家に行き話し込んでいました。そこへ西郷が来たので、榎本は急いで玄関に行き、ひれ伏してお礼を言うと、西郷は「おう」と言ってさっさと勝がいる部屋へ向かいます。釈放されたら真っ先に西郷の家へ挨拶に行けと黒田が榎本に言っておいたのでしょう。しかし、その後に行った先が勝の家でした。榎本の助命運動は、勝と薩摩閥*とかかわっていたと見るべきでしょう。

 薩摩閥
 明治4年10月に大久保利通は、大久保一翁、榎本、大鳥らの任用が『薩長云々之論にて延引相成』『皇国全力を以海外に当り候大規模を以、断然御決定之有り候』と、右大臣の岩倉具視に求めました。
菊地久『維新の変革と幕臣の系譜:改革派勢力を中心に(六) -国家形成と忠誠の転移相克-』北大法学論集、32(3):1-39, 1982-03-10

 

 

・サンクト・ペテルブルクへ

 

 

 榎本は、開拓使四等*1として出仕し、北海道鉱山検査および物産取り調べのための巡回を拝命します。翌年には開拓使中判官に処遇されます。そして、明治7年1月14日(39歳)にサンクト・ペテルブルク(北緯59度56分 東経30度20分、以後、ペテルブルクで統一)で樺太領有問題の交渉をするために、海軍中将(勅任官二等、月俸400円、当時巡査初任給月俸4円)を拝命し、1月18日、兼任特命全権公使を拝命します。3月10日に横浜港から出帆し、途中、オランダで長崎海軍伝習所時代とオランダ留学時代にお世話になったポンペ先生*2を外交顧問として雇用し、6月10日にペテルブルクの露国公使館に着任します。 

 

*1 開拓使 北海道と樺太の開拓経営のために北海道に設置された行政機関。省と同格の中央官庁の一つ。1869(明治2)年設置、1882(明治15)年廃止。黒田清隆は当初、開拓次官、後に長官に就任しました。札幌農学校や開拓使麦酒醸造所などを設立したことでも知られている。道内の産業振興に大きく貢献しました。 

*2 ヨハネス・ポンペ 1829~1908オランダの軍医。榎本は長崎海軍伝習所時代やオランダ留学時にポンペから指導を受けた。今回はペテルブルグへ外交顧問として榎本に随行しています。

 

 

 1855(安政2)年(20歳)に、日本はロシアと日露和親条約を結び、樺太は島内に国境線を設けず、日露両国民の雑居地域としました。明治政府が開拓使を設置し、黒田清隆が開拓使次官に就任し樺太専務になります。黒田は樺太を視察してみると、樺太へのロシアからの移民や軍事力強化が続く一方、日本側からの移民は勢いが無く、むしろロシアに押され気味で、ロシア人による日本人への犯罪行為も絶えない状況に強い危機感を持ちました。そして、ロシアは樺太全域の領有を希望し、日本は放棄を希望することになりましたが、日本が領有権を放棄するにあたり、ロシア側から放棄分に釣合う品について交渉が必要でした。 

 

 東京では既に、副島種臣外務卿(佐賀藩出身、1828~1905)と駐日ロシア公使のエフゲニー・ビュチョフ(在任期間 1871~1873)とで、樺太での日本の領有権放棄とそれに見合う釣合品の交渉を始めていました。その交渉では記録を取らずに行われました。副島が要求した釣合品の中に、朝鮮半島で日本が軍事行動を起こしたら、ロシアは中立を保つという密約がありました。つまり、日本が征韓をしたらロシアは静観していなさいという要求です。これを榎本は交渉の報告書では、「征韓一挙魯国中立」、「征韓中立一件」と呼びました。この樺太領有権を巡る日露交渉は、征韓論とセットでした。

 

 副島は、日本は列島からなる国家なので国防が困難であり、攻撃側有利であるから、なんとしても大陸に領土をもつ必要があり、地理的関係から朝鮮の領有が必要で、そのためには朝鮮を清から独立させなければならず、清との戦争は避けられないという征韓論をもっていました。 

* 副島の征韓論、大陸経綸論を文末に簡単に紹介 

 

 

 吉田松陰は、「国を保持するとは持てるものを失わないのみでなく、その欠けるところを増す事である。急ぎ軍備を固め、軍艦と大砲をほぼ備えたら、蝦夷を開拓し、琉球を参勤させ、朝鮮をかつてのように貢納させ、北はカムチャッカ半島、南は台湾、フィリピン、西は満州までを機を見て領土にし、その進取の勢いを列強に示せば日本を保持できる。そして、民を愛し士を養い、辺境の守りを十分固めれば、よく国を保持するといえる。列強国の中にいて、もしなにもしなければ、国は衰亡する。」と主張しました。
(松本三之介編集『吉田松陰』「幽囚録」中公バックスから抜粋、意訳。『幽囚録』は1854(嘉永7)年に吉田松陰により執筆される)

 この考えは、吉田松陰の大言壮語なのか本気なのかよく分かりません。

 

 西郷の征韓論は、朝鮮に留まらず、満州までを視野に入れていました。1872(明治5)年に、花房義質の渡韓時、西郷は信頼する軍人二名を視察目的で花房に同行させました。二人は釜山で朝鮮人に変装し、朝鮮内部を視察しました。同時期、さらに西郷は三名の軍人を満州へ派遣し調査させました。 

* 花房義質(はなぶさよしもと)岡山藩士、1842(天保13)年~1917(大正6)年、明治政府の外交官として活躍する。

 

 日露戦争を戦った首相、桂太郎の日記には、以下のように記されています。 

『抑(そもそ)も韓国の事は、明治の初年大西郷の先見に因りて、之を我邦の勢力範囲に属せしめねば、常に東洋の禍根として胎(のこ)るべき事が知れて居た。 

彼(あの)当時南州翁(西郷隆盛)の意見が実行されたなら、或いは日清の役も、日露の戦いも起こらず、幾多の先霊を非業に亡ぼす事はなかったろうが、不幸にして其の説が行われなんだ為に、其主張者たる西郷を殺し、更に数回の朝鮮事件を惹起し、日清日露の対戦をさへ捲き起こしたので有った。』 

*  桂太郎 1848(弘化4)年-1913(大正2)年。長州藩出身。ドイツ軍制を学び、山県有朋のもと参謀本部を設置する。陸軍閥。満州へ勢力拡大、韓国併合。工場法制定など。 

 

 長州の吉田、桂、薩摩の西郷、佐賀の副島らが考えていることは同じでした。幕末に明治維新を起こし、新政府を樹立後、朝鮮半島を経由して大陸へ進行し、アムール川流域の満州を占領し、ロシアの南下を妨げ、日本が大陸国家になることが、すでに既定路線でした。 

 

 榎本が艦隊を引き連れて仙台へ寄港し、そのとき、佐渡、朝鮮、蝦夷の三カ所を行き先に挙げました。結局は蝦夷に決まりましたが、このときに朝鮮の名を挙げたのは、征韓論を榎本も持っていたからでしょうか。この時点でははっきりしませんが、ペテルブルクから発信した朝鮮半島問題についての意見は後述しますが、明治政府の大勢を占める征韓論とは異なりました。 

 

 榎本が特命全権公使に至る経緯について、論文、犬飼ほなみ『樺太・千島交換条約の締結交渉 -大久保利通の東アジア外交の展開との関係―』(雑誌「明治維新史研究」(2)、2005)に紹介されています。特に、英国公使パークスは、榎本を樺太領有問題の交渉にペテルブルクへ派遣することに好意的だったことが分かります。 

 

 榎本と黒田が征韓論について議論した際、榎本が征韓論と異なる朝鮮観を示したので大久保の共感を得たのでしょう。榎本はロシアの南下政策に対し、地政学的な戦略論からは、釜山港を領有(実際には必要な土地を購入するという合法的な手段で入手)すれば足りると考えていました。釜山―対馬―九州のラインでロシア軍、ロシア艦隊を迎撃し、勝利するという方針です。 

 

 また、榎本は、日本は海洋国家であるという認識から、黒田に朝鮮半島から満州へという大陸国家構想に反対したはずです。日本の安全保障にとって、大陸国家になることを目指すより、海洋国家であることをベースに世界商品の生産・販売を強化し、経済的な強国(独立を犯されない国家)を目指すことが基本的に重要課題であると、榎本は考えていました。すでに領土の時代ではなくなっていました。しかし、ロシアには不凍港が必要でした。ロシアは不凍港を求めて諸外国へ侵略を繰り返しました。そこが日本とぶつかる原因になりました。 

 

 榎本の外交方針は、国家主権尊重、他国への内政不干渉、アジア諸国との人的交流と交易、自由貿易尊重でした。戦争観は、経済が原因で戦争が起きる、平和の戦に勝ち富国する、そのために殖産興業が重要だ、でした。海外での経済的利権を巡る国家間の争いを外交で解決できないときは軍事力の行使(戦争)になる、平時は市場で競争(国際市場での商品の販売競争)をしている、これは平和の戦であるという意味です。 

 

 榎本はロシアの南下に対し、日本―清―朝鮮が共同して対抗するべきだと考えていました。勝海舟も支持しました。アジア全体の交誼と交易の推進のための興亜会が設立されます。興亜会などについては次回、紹介します。 

 

 これまでの議論では、朝鮮半島に於ける日本軍の軍事行動の目的は満州占領でした。その目的は東アジアの安定と日本の独立とが議論されましたが、経済的メリットは議論されていません。榎本は、樺太の領有権放棄を朝鮮での軍事行動のために用いるのか否か、用いないならなんのためにこの外交カードを切るのか、一所懸命思案することになります。 

 

 

・樺太・千島交換条約締結の先見性と国利民福

 

 

 

 

 ここからは国利民福の視点から『大日本外交文書―樺太問題に関する件』に収録された榎本の意見、考え方を眺め、樺太・千島交換条約締結への榎本の狙いを考えてみます。

 

 榎本は樺太の境界に関する談判(交渉)は、利益上の議論は第二で、国家主権に関する議論が第一であり、そこに我全国民が関心をもっているとロシア側に宣言し、双方の談判の基礎を確認して始まりました。本国へは、議論を詰めると、ロシア側は遁口上(にげこうじょう)に渉るので、こちらは簡単な作業ではありませんが、事実(ファクト)を以て交渉をすすめていますと議論の様子を伝えました。

 

補足 ()内の記述は著者が書き入れました。「」内は著者による意訳した引用部です。 

 

(1)明治七年十一月二十二日 露国駐箚(ちゅうさつ)榎本公使ヨリ寺島外務卿宛 

『樺太境界談判ニ対スル露国政府ノ意向等報知ノ件』 

(寺島宗則、薩摩藩出身、1832-1893) 

 

『前外務卿副島氏魯国公使「ビツツホフ」氏との対話は筆記書無之と雖とも其結局「ビツツホフ」氏は副島氏島上境界の談判に終始不同意に付副島氏征韓一挙魯国中立の件を以て所謂釣合品の一つに算入せられし処其後談判中止せしなり征韓中立一件は恐らくは次会に渠より申出候も不可測に付下文に愚考を一言いたし置候』 

 

 意訳すると、「東京で副島種臣外務卿は駐日ロシア公使エフゲニー・ビュチョフと樺太の境界の談判をしていたが、そのときビュチョフ公使は終始、不同意で、日本政府放棄分に釣り合う(equivalent)ものに日本が征韓時にロシアは中立を保つ(征韓中立一件のこと)ことを含めていたが、次会申し出た結果を予測できないので、以下に意見を述べる」と榎本は前置きしています。榎本は、この報告書で初めて、日露秘密交渉の征韓時にロシアに中立を求めた交渉に言及します。 

 

 日本は樺太領有権を外交カードとして使える間に征韓時、すなわち日本軍の朝鮮進出時のロシアの中立を日本の樺太領有権との交換品に含めようとしていました。犬飼ほなみ氏の論文、『樺太・千島交換条約の締結交渉-大久保利通の東アジア外交の展開との関係-』(雑誌、明治維新史研究会、2005.12)によれば大久保はもしロシアがこの交換条件にのったとしてもロシアは約束を守らないと考えていました。大久保らしく国際関係を冷徹に見ていたのです。 

 

 榎本は先の前置きに続き、9項目の意見を述べています。概要は、ロシアが樺太全島を欲している理由の分析(北海道と樺太の石炭の品質比較、出入無碍港を持たずさらに英国が常に妨害することをロシアは熟知、ウラジオストックの状況と今後の見通し、樺太の南端のアニワ湾を防衛拠点にする)、ウラジオストックへの物資は海路を使っている、沿海州一帯のロシア軍の交戦力、ウラジオストックまでの陸路と海路の現状と将来予測などについてです。 

 ウラジオストック(Владивосток)=東方を支配するとうい意味です。
  Владиヴラジは「支配する」、востокヴォストークは「東」。

 

 

 また、榎本は中国国境付近の黒龍江省から沿海領地ウラジオストックまでの鉄道工事は容易ではなく、5~10年はかかるかもしれないと予測しています。 

 

 以上の沿海州から樺太にかけての現状と将来の見通しに基づき征韓時のロシアの介入対策を次のように述べています。 

 

「朝鮮と日本が開戦するとロシアは介入しないだろう。しかし対馬の向岸の朝鮮の一部(釜山浦のこと)を永領すればウラジオストックへの門戸を閉鎖できるので、ロシアは苦情を言うだろう。現在征韓の予定がなくとも征韓中立一件を魯国と隠に密約し釣合品の一部にしておくべきだが、応接時(交渉時)の言葉に極めて注意が必要である」 

 

 ここではまだ征韓中立一件を交渉に含めるのを止めようとは言っておらず、沿海州、樺太などの現状から日本がするべきことを明らかにし、次に、「征韓中立一件はもちろん推進するが、しかし、こちらからロシアへ交渉時に切り出すにしても言葉を一つ一つ選ぶように慎重に話をしなければならい」と書き終えています。まだ、征韓中立一件を交渉から除外するという結論に至っていません。またはそのための準備段階かもしれません。 

 

 最後に「我国民は常々ロシアの侵略を心配する(狂露病)が、ロシアは日本の海陸軍の進歩を見て尚来(将来)の警戒心がある」と記しています。榎本は日本人のロシアへの不安を解消するためペテルブルグから陸路、シベリア経由で帰国しました。「西堀榮三郎記念探検の殿堂」の選考委員会(選考委員長 梅棹忠夫氏)はその探検行為を賞賛し、榎本は1994(平成6)年に「探検家の殿堂」入りを果たしました。 

 

 榎本が樺太の石炭の品質を議論する中にわざわざ『函館英商(以前海軍少佐)「ブラツキストン」氏其蝦夷紀行中に・・・』と書き加え、ブラキストンも樺太の石炭より北海道の石炭の方が品質が良いと結論づけていると書いています。ブラキストン線の提唱者として知られてブラキストンのことです。

* トーマス・ブレーキストン(ブラキストン、1832~1891)
  英国陸軍砲兵。砲兵大尉に昇任後、軍務で揚子江上流域などを探検した。退役後、シベリアを横断し、1863年に箱館へ移り住み、事業を行った。

 

 

 実は、ブラキストンはスパイでした。函館日米協会編『箱館開化と米国領事』北海道新聞社によれば、米国領事ライスは『本官は、イギリスの元砲兵だったプラキストン大尉が重要な職務に就くために当地に滞留し、スパイとして尽力している、という信頼筋からの情報を入手しました』と国務省に報告書を送付すると国務省の担当者はその箇所にQUERY!(真偽の確認が必要)と書き込みました。 

 

「ブラキストンは明治政府から1000ドルと2500石の米と蝦夷地のどこでも行ける支払い済みのフリーパスを貰い、それを頼りに蝦夷地を探検した」と報告されています。しかし、ブラキストンが本当にスパイだったか否かは郷土史家の間では意見が分かれるところだそうです。榎本は少なくともブラキストンが明治政府のお気に入りだったことを利用して、政府が樺太の石炭にこだわらないようにダメ押しにブラキストンの報告を利用しました。 

 

 

(2)明治八年一月十一日 露国駐箚榎本公使ヨリ寺島外務卿宛 
『樺太島代地及代物並ニ露国ニ対する防邊ニ関シ意見具申ノ件』 

 

 

 この報告書では交渉経過と千島列島の風土物産に関する報告に加え、「諸国の新聞が、日本が樺太を放棄することを報じているが、それが代物の交渉のささいなものにまで影響し、結果、損益に影響する、私は国論と国利を苦心して斟酌(しんしゃく)しているので政府は注意して欲しい」と政府に苦情を申し立てています。榎本が新聞報道に敏感なことを示すシーンです。 

 

 この意見具申では、釜山港に加え、『対馬嶋には追々厳重の砲台を築き更に九州の一部より海底電線を設くるは不可欠の義と存候対馬嶋の防御は佐渡嶋の先にあるべし』と、対馬について意見を述べています。日本から海外へ発信される電文は、長崎で日本の電信の系統から一旦その内容が紙面にされ、すぐ脇にある大北電信会社の局に渡され、この局から海外向けに送信されます。大北電信会社はロシアの資本が入ったデンマークの会社です。たとえ暗号電文であっても、日本政府の情報がロシアに筒抜けになる恐れがあります。電文が大北電信会社に引き渡されることは、日本の国家秘密を保持するために重大な欠陥でした。そこで海底電線を独自に用意する事は、日本が海外で軍事行動を起こすに際し緊急の事でした。 

 

 また、ウルップ島のラッコ猟にも触れていて、「ウルップ島以外の諸島は雲霧が常にあり航海は不便なのでウルップ島以外の代物は軍艦にしてくれ」とロシアに主張していると報告しています。ロシアが日本に相当数の軍艦を日本に引き渡したら、日露の海上のパワーバランスが日本側に傾く恐れがあります。代物に非現実的な軍艦を持ち出したのは交渉を促進するための作戦でしょう。 

 

 次に朝鮮への対応を意見しています。 

「すでにロシアは沿海道地方(沿海州)を新しく領有したが、ロシアの財力からは十数年内には未だアジア州に威権を呈することはできない。しかし、我邦は将来の計を為す必要があり富国強兵の四文字しかないが、しかし、ロシアの南侵に対しあらかじめ次の二点に注意すべきだ」と続け、朝鮮との交誼のあり方、海上防衛のための戦略を説明しています。そして、対馬の向こう岸(釜山周辺)が日本の海上防衛の戦略拠点であることを再び訴えています。 

 

 1891(明治)24年(56歳)にロシアはシベリア鉄道を起工します。すると1894(明治27)年(59歳)に日本政府は朝鮮が独立国であることをかけて日清戦争を開戦します。その後、1901(明治34)年(66歳)にシベリア鉄道はハバロフスクまで、明治36年(68歳)にはウラジオストックまで全線開通します。そしてついに明治37年に日露は開戦し、日本が薄氷を踏む思いで勝利します。 

 

 榎本が望むと望まないとにかかわらず、榎本の予測を利用して政府は日清戦争を仕掛けます。そして、明治38年の日露戦争も日本が仕掛けました。岩倉具視使節団の欧米の視察の結果、日本は英国に40年遅れていると結論し、40年間頑張れば列強に追い付くという見通しを立てました。そして、その頃、ロシアが満州に進出し、鴨緑江まで進出してきました。日本の満州をもとめた人たちは日露戦争の時期が来たと判断し、国民に日露戦争を煽り、突入します。 

 

 WEBサイトの「海上自衛隊幹部学校」のコラム027では以下のように書かれています。 

「明治32年5月の馬山浦事件(馬山は釜山に近い)が起き、ロシアは馬山沖に軍艦を派遣し、馬山沿岸の測量を開始する。(馬山で)日本はロシアが海軍用地を買収し、軍港や要塞を建設しようとしていると考え、先手を打って馬山の土地を買い占め、ロシアの進出を諦めさせ、日本は鎮海(釜山と馬山との間)を艦隊の前進根拠地として艦艇を配置し、対⾺海峡の防備を万全にした。日露戦争開戦時は無線通信が未だ不安定なので海底ケーブルを引いた。そして鎮海湾が(日本の連合艦隊の)待機海面とされる」 

 

 

 

 

 ロシアが沿海州での実質的な支配が完成する時期を榎本は『今から十数年後以降』、つまり明治24,5年以降だという見通し、対馬の向岸が日本防衛の戦略拠点であるという見通しを示し、それはは実に精確でした。 

 

 この書面の最後部に『樺太嶋代物中に朝鮮一件密約云々の義前便一寸申上候得共右は此方よりは断然不申出(もうしでざる)方に決し申候』と記しています。 

 

「前便にて樺太代物約束中に朝鮮一件密約の一端中断を連絡しましたが、こちらは断然申し出ない方に決めました」と榎本は寺島外務卿に報告しましたが、その理由はそこには書かれていません。 

 

 ここで榎本は、樺太一件の交渉は征韓、つまり富国強兵目的で東京で副島外務卿が始めた密談をここにきて中止し、また、ウルップ島以外の代物を軍艦にしろという要求は既に断られ、富国強兵策は交渉内容から消え、代物(釣合品)を産業上の利益に基づく交渉方針に転換させました。 

 

 次の報告書は一月十五日付けで、榎本は寺島へキュルリ諸島(クリル列島)の各島(北千島)の吟味経過を報告しています。そして、三月二十八日の榎本から寺島への報告で、樺太一件は日露とも日本の樺太の領有権とロシアの北千島の領有権を交換することで双方意見の一致をみたと報じています。 

 

 条約締結後は、ロシアは千島列島の不凍港を失い、艦隊は千島列島を抜けて太平洋側に出られず、日本には千島列島のラッコやオットセイなど国際市場に向けた新規事業が生まれます。 交渉を軍事目的から国利や民福へ転換させることに成功しました。

 

 尚、明治七年十二月六日の榎本から寺島への報告書では樺太一件に関するロシア政府の密命要略を報知しています。この内容は「ポンペ氏の手立てでロシア政府の某役人より極秘に入手した書簡である」と榎本は書き添えています。榎本の諜報活動の一例です。 

 

 1875(明治8)年5月(40歳)に条約は締結され、その後、千島列島の水産業推進や水産資源保護について法律が繰り返し制定され、東京地学協会で開拓使や榎本自身が千島列島の風土や水産物について講演しています。榎本が農商務大臣に就任時の明治28年にラッコ・オットセイ猟法を制定しています。

 

 条約締結四ヶ月後の9月20日に日本の軍艦、雲揚(うんよう、小型砲艦、元長州藩籍、英国製)は江華島事件を引き起こします。明治新政府は日清戦争への準備段階に入りました。

 

・補足 

 

1.条約が締結された1875年の11月に英国はスエズ運河の44%の株を取得し経営権を掌中に納めました。列強国の中で産業では先進国ではなくなった英国は対外的には利権確保の方針に大きく転換しました。

2.副島の征韓論は黒龍会編『東亜先覚 志士記傅』(原書房、昭和49年、復刻原本昭和11年)によれば次のようなものです。 

 

『日本が朝鮮の独立を助けて之を文明に導くと所詮朝鮮は自力を以て独立を保持し得る国にあらず、早晩何れかの国に侵略される運命にある。折角日本が誘導して交明を扶植し産業を興すとも、必ずや機を見て強国が侵略するであらうから独立の救援などいふこと程馬鹿らしきことはない』 

『如何にして日本帝国自体が萬世に亘り独立を保持して行くかがより重大な問題であつた』 

『四面海に囲まれた日本は海軍によって攻撃される場合には守るに不利で攻撃する側からいへば攻め易い国である。故に島国たる境地に甘んじていては国防上の危険は永久に除かれず、国家の防衛が確保し難いのであるから、何としても大陸に領土を得ることが必要である。而も大陸で日本が領土を得んとすれば、先づ地理的関係からして支那と朝鮮に指を届しなければならぬ。併し朝鮮は支那が既に之を手中に収めんとして多年其の魔手を伸ばして来ているのであるから、今日本が朝鮮を領有せんとしても支那は必ず之を手離すことを肯(がえ)んせざるべく、結局、朝鮮を得んとすれば支那と一戦を交へ武力に依つて目的を遂げる他はないのである。之に対し無名の師(大義名分の無い戦争)を起すものとして反対するものもあらうが、戦争によつて国家を強大ならしめることは、国家の濁立を確保する所以の道であり、君主に対して忠節を尽くす所以の道である。従ってそれは国家に取りて正理と認むべきものである。殊に支那が朝鮮を属邦となさば我が国の独立を保全するに不利であるから、その不利を除く為めに戦争に訴へることは万国公法に所謂均勢の義に合致し、当然正当の権利と認めらるべきものである』 


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  1. […]  ※参照:榎本武揚と国利民福 Ⅲ.安全保障(中編-2) | 情報屋台 (johoyatai.com) […]

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