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榎本武揚と国利民福 Ⅲ.安全保障(後編-2-2-a)

2020.12.29 Tue

(現在のサンクト・ペテルブルクの地図に榎本がいた当時の日本の公使館の位置など)

①周辺 最初の在露日本公使館、② 二番目の公使館、 ③ 三番目の公使館・・・榎本が帰国するまでは引っ越ししなかった  ④ 旧海軍省、 ⑤ 旧冬宮殿、エルミタージュ美術館、 ⑥ 旧参謀本部  ⑦ 電話/電信局、 ⑧ 旧ロシア帝国国家資産省、 ⑨ 博物館(ピョートル大帝記念人類学・民俗学博物館、鉱石コレクションもある) ⑩ 旧証券取引所館 ⑪ 現在の在サンクト・ペテルブルク日本国総領事

 

 

・公使館の位置

 

 

 在露日本公使館は、海軍省の建物に沿ってネヴァ川の上流側の建物に入居していました。①のあたりです。次に、エルミタージュ美術館の少し下流の②に引っ越します。その次に、③の建物に越します。榎本が帰国するまで、引っ越さず、ここのままでした。⑧に旧ロシア帝国資産省がありましたので、資産省が面した通りが官庁街だとすれば、官庁街の通りに公使館があったことになります。

(中村喜和一橋大学元教授の『御用向きは重きことなれども―ロシア公使時代の榎本武揚の宅状より―』(『遙かなり、わが故郷』成文社、2005年4月)を参照しました)

 

 

 榎本から明治8年10月に多津へ二三度送った手紙では、公使館が②から③へ引っ越しする件で「ドイツ、フランス、イギリスへ休暇旅行し、9月29日にサンクト・ペテルブルクに戻りました。今、公使館は引っ越し中です。11月3日までにオランダで発注した家具などが入り、インテリアが完成します。そして、11月3日の天長節にロシア諸大臣を今度の公使館へ招待しています。今度の建物は以前ほど広くありませんが、以前の田舎町と違い、今度の町の通りは夜遅くまで人通りがあり、結構にぎやかです」と書き送りました。

 

 公使館前の通りを右へ少し行くと、ロシア帝国国家資産省がありました。今度の公使館は官庁街に近かったようです。さらに、一つ通りの先の角に電報局や郵便局があり、便利な場所でした。新しい公使館に早速やってきた電信は外務卿が発信した、『サル9月20日朝鮮ニテ我軍艦を打たる趣』(江華島事件)という内容で、公使館では9月30日に受信(落手)しました。

 

『当節ハ人気(ひとけ)さわだち候事を被察候(さっしされたくそうろう)。此度は多分戦争ニ可相成欤(あいなるべくか)と皆々考居候。』と書き、公使館のみんなはこれで気分がさわやかになった、さっぱりしたと江華島事件の感想を伝えています。

 

 明治8年7月5日に兄、武興と姉、らくへ送った手紙に、『今日横浜ゟ(より)到来之外国新聞紙に拠れば(昨年)朝鮮国森山子へ内談判せし朝鮮役人二名を断頭せし由(一名は四月十六日、一名は同月廿一日)果たして然らバ此年又々一騒動と可相成いづれの道朝鮮とは一度兵を交ゆる立チ至り申可と兼々在居候。朝鮮にて妄動する丈ケ(だけ)彼の禍と相成申候。』と書いています。外務省の森山茂(1842-1919、大和藩士)が朝鮮国との外交交渉を担当していました。

 

  森山は釜山で日朝の国交を樹立しようと交渉を継続していましたが、朝鮮側は日本からのアプローチに不満を示し、実質上門前払いをしていました。そこで、森山は朝鮮側の役人二名と交渉を進めるための内々の相談をしていたところ、それを知った朝鮮側の役人は二人を咎め、二名とも斬首(処刑)しました。この朝鮮側の行為に森山は今までの交渉スタイルを変え、強硬路線に切り替わり、日本政府は朝鮮国に対し、朝鮮半島へ二隻程度の軍艦を派遣し、軍事示威行動に出て朝鮮国に圧力をかけるべきだという主張に変わりました。この状況に対し榎本は、高圧的かつ硬化した朝鮮国の対応を盲動と呼び、盲動をすれば、自身の禍となる、と書きました。

 

 榎本も遅々として進まない日朝修好条規の締結に苛立ちを感じている一人でしたので、江華島事件を知ってさっぱりしたと書きました。しかし、榎本が西南戦争で政府軍の進撃を喜んでいるとか、江華島事件に留飲が下がる思いといったことを手紙にすることに、戦争に消極的な榎本の姿から違和感もあります。西南戦争でかつて榎本の命を助けた西郷の軍を攻撃する政府軍、箱館を攻撃して榎本の軍隊を打ち破った政府軍、その政府軍の傷病兵への寄付を渋った妻の姿勢が榎本家の本当の姿なのではと思えます。

 

 榎本が家族に送る手紙は本国宛ての報告書に同封しました。外務卿に報告書が渡る前に榎本は自身の手紙が検閲を受けることを想定し、自分が政府の方針に賛同していて、二度と政府に逆らうことはないという姿勢を見せつけようとしていたとも考えられます。また、妻への切々たる手紙を書くのも、外務省関係者にみせつけて、榎本への共感を増そうとしていたのではとも考えたくなります。家族思いの榎本なら、本来、山六(山内堤雲)がするように、最短日数で届く米国経由で日本にいる家族に手紙を送るのではないでしょうか。妻には、アメリカ経由が早いよと言い、自身はわざわざ本国への報告書に同封したのかもしれません。

 

 

・条約締結後の心境

 

 

 明治8年6月20日、兄、姉宛ての手紙に樺太千島条約締結への感想を述べています。
『今般寺嶋外務卿より日本国の為め後来之書を除き国柄をおとさず国利も失はぬ取計方格別之骨折なりとホメコトバ申越候間是又一寸御披露申候、尤(もともと)この義は手前出立前より決心之上引受候義ニ付人がなんといふともかまはぬ事なれどよくいはれるバ心地よきはあたりまいなり、乍併(しかしながら)世間にはかれこれいふものも可有之れど決而(けっして)々御気ニかけ被下間敷(まじきくだされ) 黒田長官抔も此度伝言を以て礼を申越候』

 

 朝鮮や台湾の件では世間は威勢が良かったが、北の方向は静かに幕が引かれたので、あーだ、こーだと言う人もいたようですが、自分は決心した上でこの仕事を引受けたから、全く気にしていませんし、そちらも気にしないでくださいと兄と姉に手紙で伝えています。

 

 

・条約締結以外の仕事

 

 

 榎本は着任するとすぐ、樺太在住の日本人に対するロシア人の犯罪行為への対応をロシア外務省へ求める仕事から始めました。そして樺太の領土問題の交渉を準備し交渉が始まりますが、領土交渉以外で榎本が取り組んだ仕事を紹介します。

 

 

・マリアルス号事件の国際裁判

 

 

 榎本達、オランダ留学生は、オランダへ向けて航海中、セントヘレナ島に寄港します(1863年)。港に英国海軍によって破壊された黒人の奴隷商人の船がありました。黒人奴隷商人を「スラフハンデラール」と記述しています。Slave-handler、奴隷取り扱い商人とでも訳せばいいのでしょうか。赤松の記録では、黒人奴隷一人、3ポンドステルリンフ、売値15ポンドステルリンフです。さらに、子供らは銘酒をもって母親に支払われたと記録しています。ポンドステルリンフとはpound sterlingのことで、当時、1ポンドはざっくり20万円くらいだとすると、黒人を60万円で買い、300万円で売るという人身売買でした。

 

 英国では、1807年に「奴隷貿易禁止法」が制定され、1833年8月に英帝国内の「奴隷制度廃止法」が成立し、これとともに実効力ある労働者保護法である「一般工場法」も制定されました。英帝国、すなわち英国および英国植民地にのみこの法律は適用されるので、英帝国外での奴隷制や奴隷貿易は実質的にはなくならなかったのです。

 

 1872年7月9日、ペルーに向かっていたペルー船籍のマリアルス号は悪天候の中、帆先を破損したため修理が必要となり、横浜港に入港します。この船には清国人の苦力(クーリー)、約230人が乗船させられていました。彼らはペルーに奴隷として売り渡されそうとしていました。彼らの何人かが逃亡を図り、英国軍艦に救助されたことから、在日英国公使館は、マリアルス号は奴隷運搬船だと判断し、日本に清国人の救助を要請します。

 

 時の副島外務卿は神奈川県権令(副知事)に清国人の救助を命令します。清国人を日本は救助できましたが、マリアルス号のキャプテンは不服として訴訟を起こします。日本は繰り返し訴訟に対応しましたが、訴訟の結果はペルーが納得するところでなく、ペルーの海軍大臣が日本を訪れ、政府に謝罪と損害賠償を求めました。日本とペルーとの間に二国間条約が無かったので、仲裁契約が締結され、両国同意のもと第三国のロシア帝国で国際仲裁裁判が開催されることになりました。

 

 マリアルス号事件の舞台は榎本がいるサンクト・ペテルブルクに移りました。国際仲裁裁判所はサンクト・ペテルブルクに設置されたのです。花房一等書記官もマリアルス号事件のために赴任していました。国際仲裁裁判は、1875年6月に開催されました。日本側代表として榎本全権公使が出席し、日本の全面的勝利でした。榎本がこの裁判に向けてどのようにロシア皇帝に働きかけたかは語られていません。榎本の活躍があったと想像するべきでしょう。

 

 この事件は「奴隷解放事件」として後世に伝わりましたが、当時、ならば国内のそういう一連の事態を解消しようということになり、1872年11月2日(明治5年)に「芸娼妓解放令」が発令され、遊女の人身売買が禁止されます。この政府の措置は人道的ですが、その結果、職を失った遊女たちが東京の街をさまよう事態になりました。解放政策は人道的といいつつも、解放後の人が食べていくための現実的な政策は欠如していました。

 

 

・開拓使への貢献

 

 

 榎本は、庭で農業(野菜栽培)をし、購入した孵卵器を使っていろいろ実験して楽しむ毎日です。開拓使らからの問い合わせに対応し、開拓使らに有用な情報やサンプルがあったら開拓使に提供するという、国益や国利の概念が常に榎本の頭の中にありました。

 

 例えば、ラッコ・白虎の皮のサンプル、種(特に亜麻が有名)を送付しています。亜麻の栽培では、榎本自身が公使館の庭で好適栽培条件を求めていろいろ実験していますし、日本でも同様の実験を求め、その情報を開拓使に伝え、蝦夷で亜麻の栽培が開始します。

 

 また、エストニアとロシアの国境付近の都市、ナルバ(Narva)へ魚の網打器械(ワナカケキカイ)の視察を依頼され、大金(大岡金太郎)を連れて見学しました。

網打 投網と同じ

 

 

・バルチック艦隊の基地を訪問

 

 

 

 

 ロシア海軍のポポフ提督とも仲良くなり、サンクト・ペテルブルクから沖合約30キロの海に位置するコリン島クロンシュタットに招待され、ロシアの最新の魚雷を見せてもらいました。ここにはバルチック艦隊の基地があり、榎本は魯国の甲鉄艦数隻を見ることができ有益な見学だったと妻への手紙に書いています。

 

 本人も何故か、ロシア海軍は自分にいろいろ見せてくれる、ロシア高官たちは自分に好意的だと手紙に書いています。高い海軍の専門能力を有する榎本にロシア海軍の最新兵器を見せれば、榎本がロシア海軍と戦うべきではないと日本政府に報告するのではとロシア側の期待があったのでしょうか。ところが、榎本は良いものを見せて貰ったと思ったのか、魚雷のサンプル(?)を手に入れ、日本に送りました。

* ポポフ提督 ロシア海軍の提督Vice-Admiral A. A. Popov (1821-1898)

 

 

・甲鉄艦(東艦)、沈没する

 

 

 1874年(明治7年)3月、榎本がサンクト・ペテルブルクに出発するとすぐ、4月4日に台湾蕃地事務局(局長、大隈重信)が設置され、4月7日に出兵命令が下り、台湾出兵が行われます。その後、台湾について清国との交渉をする大久保利通を乗せた軍艦に随伴して、甲鉄艦が出帆します。この甲鉄艦(購入時の元の名前はストーンウオール号、明治政府の艦隊に編入後は東艦と命名された)は、徳川幕府の小野友五郎が福沢諭吉を通訳として連れて米国に渡り、購入交渉をし、手付金を払って手に入れた軍艦でした。

 

 しかし、戊辰戦争勃発で米国も中立の立場を取ったので、甲鉄艦を徳川に売り渡すことは中断していました。その甲鉄艦が横浜港にやってくることになったので、大隈重信の談判により、甲鉄艦は明治政府、薩長政府側に引き渡されます。その甲鉄艦が箱館に向かって出帆し、宮古湾に寄港したところを榎本達は甲鉄艦奪還のための海戦を決行します。

 

 榎本達のこの作戦はアボルダージュ作戦(移乗攻撃または接弦攻撃などと呼ばれる、合わせて偽旗作戦も取った)として知られています。この作戦は失敗します。その結果、甲鉄艦は箱館へやってきて、軍艦開陽を失った榎本達を苦しめました。

海戦 宮古湾海戦と呼ばれている。官軍側の黒田陸軍参謀の反対を押し切って、艦長たち幹部は隣の山田湾にいた。宮古湾に停泊していた軍艦に若き砲術士官、東郷平八郎も乗船していた。

 

 台湾出兵後、清国と交渉するために大久保を乗せて出港した軍艦に随伴した甲鉄艦(東艦)は8月21日に長崎で暴風に遭遇し沈没します。そして、9月には器械で揚水し浮揚され、横須賀造船所で修理されます。

 榎本は東艦の沈没についてドイツの公使館にいる品川弥二郎に10月27日付で手紙を書きます。

品川弥二郎 1843~1900、萩藩士、吉田松陰に師事後、尊王攘夷運動を開始し、1862年の英国公使館焼き討ち事件に参加する。戊辰戦争では奥羽鎮撫総督参謀など。明治3年に普仏戦争視察のため渡欧、その後各地で留学し、ドイツ公使館員を務める。明治9年に帰国後は明治政府官僚、政治家。大日本農会など専業団体結成と育成に貢献。妻は山形有朋の姉。

 

 品川からの手紙への回答に続き、英国から軍艦を買い付ける件について本国へ秘号電文(暗号電文)で申し出たけれど、それから一か月半過ぎて返事が無い、清国と戦争になってからでは英国から軍艦買入れは難しくなる、本国から買入れるよう電文が来たら英国へ出向きます、と書いています。そして、買入れる候補の軍艦の種類を議論しています。

 

 次に長崎で沈没した甲鉄艦に関し、自身の意見を伝えるとともに、ロシアでの沈船を浮かす最新技術を詳しく紹介しています。この技術はポポフ提督による発明で、榎本は、サンクト・ペテルブルク沖のコリン島にあるバルチック艦隊の基地クロンシュタットで目撃したと書いています。沈没した軍艦を浮揚させる技術を重要と思い、その後、翌年、1875年(明治8年)6月に榎本は本国へ引き揚げ器械の雛形や技術資料をまとめて送っています。

 

 品川への手紙で注目すべき点があります。それは、清国との戦争を考え、軍艦買入れを推進しようとしたことです。榎本の頭の中では、仮想敵国はロシアというより清国だったのです。ロシアも清も仮想敵国ですが、戦う順番は清、ロシアだったようです。当時は、ロシアより清のほうを仮想敵国として強く意識していました。

 

 清との戦争の準備として、こういう種類の軍艦を英国から買入れておくべきだと説明し、買い付け方針が決まれば英国に日本側の要求仕様を満足する軍艦があるか、自分自身が英国に行き、確認したい、もし、こちらの要求を満足する軍艦がなければ、オランダへ行き該当する軍艦の有無を調べたい、と書いています。実際に、明治8年8月から9月にかけて休暇旅行でドイツ、フランス、英国を旅行します。その旅行にかこつけて、英国で軍艦の購入交渉をします。

 

 そして、手紙は続きます。清の軍艦の装備、搭載した兵器や兵卒を解説し、8月23日に台湾に向け上海から出帆したときの状況を説明します。重要なことは、兵卒に給金を渡さず、士官等が私した(自分の懐に入れてしまった)ので、兵卒らは大きな不満をもち台湾上陸と武器の陸揚げを拒否した、更に、沖合を日本の軍艦が徘徊するので出帆後一撃で轟沈されると患(うれ)い、さらに日本軍の捕虜になるとひどい目に逢うは必然、と8月26日に上海に戻った、と8月29日の上海の新報が報じたと書きました。

 

 また、清国側は上海一帯を中立地帯にしようと西洋人のコンサルタントと相談しているようだが、これは清の大失策で、中立地帯を元に戻すことは極めて難しいことを事前に知っているべきだ、とにかく清国内は不折り合い事極めて甚だしいので、反って日本に幸いしている、近来朝野一致して今にも清と戦争が起こることを待っている様子ですと、品川に教えています。

 

 最後に、榎本は品川に清は22万ポンドでフランスから装鉄船を買ったというがこれは虚説に違いありません、こちらにある情報はこれが全てです、と書いて手紙を締めています。

 

 日清戦争の20年前の日本側の様子を榎本は以上のように書きました。日本は朝野一致して清国と戦争を希望していると書いていますが、榎本自身も賛成しているとは書いていません。書いていませんが、冷静に国内外の状況を分析しているところが榎本らしいところです。

 

 

・海底ケーブルの提案

 

 

 1875年(明治8)、榎本は江華島事件の処理として海底電線に関する海底ケーブルに関する提案書を露国から山内堤雲、石井忠亮へ送付します。

  • 日本から釜山までの海底線敷設の権利獲得
  • 朝鮮半島西側で支那に近い適当な個所に海底線陸揚げの権利を獲得
  • 天津に支那電信線が達する時期に2項の陸揚げ権を得た地点まで海底線を敷設する
    (ロシアは必ずキャフタから北京まで電信線を建設するので日本に利益をもたらす)

 

 当時日本にできることは、陸揚げ権を手に入れておくことだけで、実際に海底ケーブルを敷設する技術を国産化したのは、榎本が明治18年に逓信大臣になってリーダーシップを発揮してからのことです。しかし、今、この時、海底ケーブルの陸揚げ権を日本側が確保しておくことは、日本の軍事的にも民生的にも、将来、重要なことでした。

 この提案をした背景に、日本政府は朝鮮半島での軍事行動を計画しているから、それが成功するためには、この海底ケーブル敷設の準備が欠かせないと考え、本国にいる通信関係の山内と石井へ連絡をしました。残念ながら、日朝修好条規締結の際には、この榎本案は実現しません。しかし、後年、この時点でこのような考えを持てた榎本は非常に素晴らしい先見の明をもった人物として、通信関係者から賞賛されました。

 

 

・翻訳、読書

 

 

 ポンペ先生に『朝鮮事情』*の元の本を紹介されます。この本は、フランス人宣教師、シャーレル・ダレ―が、収集整理されていた資料を基に執筆した『朝鮮教会史』で、その第一章をポンぺが翻訳し、榎本らロシア公使館の職員で分担して日本語に訳しました。そして、この本を出版させてくれという話が榎本に来ますが、本人は江華島事件の前なら飛ぶように売れたかも知れないが、今はたいして売れないだろう言います。また、『千島誌』*2も翻訳します。この本は明治天皇に、そして、開拓使に情報を伝え、手に入れた千島を産業化し、国利のために有効活用してもらおうという願いがありました。

*1朝鮮事情 シャーレル・ダレ―著、ポンぺ抄訳、榎本武揚重訳『朝鮮事情 原名・高麗史略』集成館、1882年(明治15年)

*2千島誌 A・S・ボロンスキー著、榎本武揚他訳『千島誌』内閣文庫所蔵の写本

 

 有り余った時間を使って、ブルンチュリ(Dr. J. C. Bluntschli、1803‐1881、スイス生)の本を館員と勉強しているとも書きました。ブルンチュリは憲政学者ですが国際法の分野で活躍しました。また、政治家でもありました。彼の代表的な主張は、かなり大づかみですが、次のようなものです。「憲政上の政府、国家は有機体で、誕生から死までの寿命をもつ、国家は国家自体の存在を確保しかつ市民の私的権利を維持する、国家は人々を幸せにするという役割をもたないが、幸福が創造される土壌を提供する、個人の幸福は個人だけが自身のために創造できる」。(社会契約説を批判し、国家主権説を主張)

 

 また、ブルンチュリはキリスト教の教えにより、調和と相互尊重を通し、国内にプロテスタント教会の連合を形成することを目標に宗教的活動をしました。この活動は、当時極端に保守的で過激な見方をする存在だった(ナポレオンが言うところの「古い社会」、著者挿入)教会と重要なバランスを取ったとされています。

 

 最も代表的な書物を以下に列挙します。

Das moderne Kriegsrecht der civilisirten Staten”(1866; The Modern Law of War)は1899年、1907年のハーグ平和会議(ハーグ陸戦条約)に影響を与えました。題名を邦訳すると『現代(最新)の戦争法』。

Das modern Volkerrecht der civilisirten Staten” 本の題を邦訳すると『市民国家の現代国際法』という名称のようです。(「市民国家」は「文明国家」かもしれません)

Das Beuterecht im Krieg” 1878 本の題名は『戦争で戦利品にできる権利』

(出典: Johann Kaspar Bluntschli - New World Encyclopedia

 

 1866年は榎本がオランダ留学を終え、開陽丸に乗って日本へ向け出帆した年です。『現代の戦争法』はブルンチュリがオーストリアープロシア戦争の時期に執筆しました。榎本はその戦争の後に出帆したので、この本が手に入るか入らないかギリギリのタイミングです。これらのいくつかの著作を勉強したのでしょう。また、ブルンチュリの研究は明治政府の建国に大きな影響を与えたとも評されています。(日本大百科全書(ニッポニカ)、2018)

 

(国利民福 Ⅲ.安全保障-後編-2-2ーbへ続く)

 


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